春の狭山はさらさら行くよ 資料を集めて時来たりとぶらり狭山の城館跡を訪ねる。 明確な遺構は「城山砦」でお馴染みの柏原城ぐらい。 だが、中世期の城館跡の香りはここのみならず、市内の所々から出てくる。 調査のついでに柏原城の周りをちょっと通る。 城の脇には桜があり、手前の畑が大変いい光景を描いている。 この光景いつまでも残していて欲しいと願うばかり。 青柳地区の氷川神社の鳥居より。 桜の木と赤い鳥居がとても合っていて良い。 既に境内の桜は散り始め、桜吹雪が風に乗ってあたりに舞っていた。 って事で資料を幾つか入手し帰宅したのだが、さらに難問が・・・ 奥富地区で源義家が奥州平定の帰路でこの地に一族を置いたという伝承。 これは戸張の地名がある所に求めてよいのか謎だ。 また入間市藤沢は源氏の落武者である藤沢二郎影親という武士がいたという伝承。 入間の小字を調べても直接館跡を示す地名が見当たらないのでこちらも苦戦しそうだ。 他に「中内手」「前内手」「四郎館」という小字もある事がわかり、 狭山・入間地区の城館調査はますます混戦の様相を呈しているようだ。 [0回]PR
旅は道連れ城館資料 今日は母上殿を乗せて、はるばる山梨県北杜市へ訪れた。 何故に訪れたのかと言えば・・・城館関連の資料を入手するためであった。 のんびり車で移動していくと・・・せめて一ヶ所は城跡行きたいって思いに。 そこで思い立ったのはまだ未訪問だった新府城へ。 新府城北側でなにやら試掘調査が行われていたが、気にせず狭い県道を通って城へ。 石碑もあってかなり良いが、狭い道と登りに母上殿は少々お疲れ気味に。 道無きまがい地めぐりに比べたら全然楽なのだが、慣れない方だと大変なご様子。 そんな事で誰が名づけたか乙女坂を登って本曲輪へ。 本曲輪をぐるりと回って、南の遺構に着いた時。 「あ!」と声を出す母君、はて?何かあったのっと訪ねるとミツバやヨモギがたくさんあるから採りたいとの事。 散歩をしていた母君はその辺りにある草を刈りだしはじめた。 ふむ、その間に新府城の遺構を拝見してきた。 ふむ、これが武田氏流の丸馬出か、思っていたより規模が大きく見ごたえがあった。 あと所々の遺構をとくと拝見。 って母君はそろそろ待ちくたびれているかなっと戻ってみたら・・・まだ草刈中。 母君曰く「ここは面白いわね」との事、まさか城跡で食用の草刈を始めるとは想像も付かず戸惑うばかり。 持ってきた袋一杯に草を刈って「また来たいわね」ともおっしゃる。 ふむ、退屈しなかったのでこれで良しとしよう。 その後北杜市の図書館に行き、お目当ての資料をゲット。 もちろんその周辺の城館跡の資料も忘れず取得し、とりあえず今回のミッションは終了。 その間、母君は当方の車を使って色々と見て回られたようだ。 その後もう一ヶ所別の図書館にも行き資料を得て帰宅。 どうやら自分と同じで母君も遠くに行って色々と見るのが好きな事が判明。 ソロの時より城館探訪ができないが、こんな親孝行でよければまたお連れしたい所だ。 ・・・さて、大量に仕入れた資料を読みふけるか。 [0回]
遥かなる岩山の城 星尾城を探訪後、南牧村で奥にある熊倉城と熊倉東城の様子を見ようと行ってみた。 西からどんどん雪雲が出てきていたが、麓までは行ってみた。 ●熊倉城(群馬県甘楽郡南牧村) ・・・熊倉城の遠景。 どう見ても玄人仕様の山城だ。 (訪問が困難かつ危険でありながら遺構が乏しい城館を玄人仕様と個人的に呼ぶ) 地図を見ても登り口が見当たらず、渡河した後獣道を辿って登るしかないような気がしてきた。 ついでだ、お隣の熊倉東城も見ておく事に。 ●熊倉東城(群馬県甘楽郡南牧村) ・・・もう言葉の無いほどの険峻さである。 写真の左に見える「碧岩」と呼ばれる岩山がその訪問できぬ絶望感を増幅させているようにも見えてくる。 クライミングテクニックの無い当方としてはかなり周到な用意をしないと行けない城であると理解できた。 この時点で個人的に埼玉の比丘尼城を超えたと思った。 かくして群馬の城館跡のハードルの高さを身にしみながら、撤収したのであった。 [0回]
星尾城 先日回りきれなかった山城パラダイスの群馬県南牧村。 とは言え、元もとの地形の険しさを利用した山城が多いので、堀切などの設備は乏しい。 性懲りも無く簡単にいけそうな山城はと地図を調べていたら、林道から登れそうな星尾城が候補に挙がった。 さっそく南牧村へ行き、城を見る事に。 ●星尾城(群馬県甘楽郡南牧村) 星尾城は荒船山の南に位置し、その荒船山の西側にある星尾峠を通る街道を監視していたと思われる砦である。 麓から星尾城のある城山を望む。 ここから歩くのであれば滅入りそうな山だが、今回は林道という心強い味方が居るので安心だ。 一回星尾の集落に入り、標高1080mの大屋山の西に敷設されている林道へ。 大屋山の尾根の一部に星尾城があり、林道からの目印は最初に出てくるこのトンネルなので分かり易い。 ちなみにこのトンネルの名前は「阿久津隧道」と言うらしい。 トンネルの横に目を向けるとそこには数多くの石積みが。 これがこの地がどれだけ崩れ易い地形であるかを物語っているようである。 今回はこのままこの斜面を直登したのだが、降りるときに見つけた当時の道を辿って案内する事にする。 先のトンネルの向かって左に法面(のりめん:人工の斜面)があり、その合間に階段が設置されている。 恐らくはこの林道を作る際にこの階段のあるところには星尾城への道があったのであろう。 ここを上がって法面沿いに上がっていく。 途中が少々雨水で荒れてしまっている道になるが、それにもめげず上がっていく。 山を歩きなれた人であればそこに道があったのが分かると思われる。 するとこの石積みが現れ、道を保護している。 ここについたらそのまま先のトンネルの上の鞍部(ラクダのコブの間みたいな地形)を目指して歩いていく。 すると堀切と見間違えるような切通しが現れる。 恐らくは切通しでありながらも星尾城を守る堀切でもあるのだろう。 ここから城山方面(西)に向かって上がっていく。 個人的に星尾城を代表する遺構と思っている場所がここである。 この地形を見た瞬間「岩壁ロード」という言葉が浮かんでしまった。 これだけ巨大な岩を穿って人の通れる道を作っているのが素晴らしい。 ただ今「(仮称)岩壁ロード」を通過中。 にしてもこれだけの道を作るのに相当苦労もあったのだろうな。 直接的な城館遺構ではないが、ここには感動したり。 一つ尾根を越えて行くと更に南に向かって道が続く。 これだけの斜面だと進むのも大変なのだが、石積みのおかげで快適に城へ行く事ができた。 遺構は山頂と言われているが、山頂付近は削平地は乏しかった。 その点、先の岩壁ロードによって導かれたこの平場の方が城の遺構と呼ぶには相応しかった。 この先は木々が無いので展望を楽しむ事に。 尾根の先はこんな感じで、一歩でも踏み外せば絶壁から転げ落ちる危険な場所。 しかし、この地形のおかげで周辺の見晴らしは良好になっている。 足元の岩にしがみつきながら、周りをみてみよう。 まずは星尾峠方面を望んでみる。 地図を見た感じではギリギリ星尾峠が見えるかと思っていたが、残念ながら荒船山から伸びる尾根に遮られて峠は見る事が出来なかった。 今度は南に目を向ける。 写真中央奥の鉄塔の立っている山がこの辺りの主要城である砥沢城。 城山の山頂ではないが、ここからも砥沢城への烽火などの連絡が可能である事がよく分かる。 そんな砥沢城の風景をさらに拡大してみた。 この城へのアクセスは背後に林道が走っている為にここより訪問し易いのかも知れない。 それにしても鉄塔が建ったのは残念だが、そのおかげで砥沢城の目印になって少々便利。 砥沢城に建っている鉄塔の先へ目を向ければ、そこには海抜1200m級の稜線を越える鉄塔たちの勇姿があった。 それにしてもこんな標高の高い山も越える送電鉄塔って改めて凄いと思う。 下はおそらく直接城跡ではない部分と思われるが、オマケで書き足しておきやす。 星尾城山の山頂記録へ [0回]
魚沼氏館 ●魚沼氏館(埼玉県北葛飾郡松伏町) この日は小字調査を並行して行っていたので、だいぶ日が傾いてしまった。 何気に前々から興味があった魚沼三郎の館を訪れてみた。 大字魚沼の大部分は水田であるが、中川に面した字堤内は集落があり、ここを館跡と仮定して訪れた。 まずは香取神社付近の調査、ここに香取神社がある事はかって下総国であった事を伺わせる。 神社の境内付近は周辺より高台にはなっているが、館跡とするには面積が狭い。 香取神社の北には妙音寺があるが、自分が見た所無住の寺のようである。 この辺りは宅地になっており、遺構らしい地形は見られなかった。 でも徐々に水田側(北)に移動していくと、城館遺構と見間違えるような築堤があった。 流石に民家の敷地内なので入らなかったが、ちょっと登って調べてみたかったりも。 この辺りに限らず低地の城館跡はこういった水害除けの堤防もあるので、これを考慮して地形を調べる必要がある。 何気にうっすらと筑波山が見える。 この山が見えてくると随分東に来たなって感じになってしまうのであった。 [0回]