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職場改善おめでとう

この暑い陽気の中、とうとう他の部署の人が熱中症で倒れたとの事。
他の部署の環境はよく分からないが、自分の働いている環境(室温40℃超え)も異常と思えていた。

流石に会社の方も事態を重く見たのか?やっと空調の見直しをしてくれた。
犠牲者が出てから対応って・・・でも職場改善をしてくれた事は感謝。
お陰で書類が汗でゴワゴワする心配がなくなった。
(熱中症の事より暑さで手汗が大量に出る事が最近気になっていた)

そんなこともあって、今日はいつも以上に職場掃除に励んでしまったり。

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財布に穴が

買い物をして会計を済ませた所で、「十円落としましたよ」と店員さんに教えてもらった。
「これはどうも」とかがむと、さらに小銭がジャラジャラと・・・。

そう、いつの間にか財布に穴が開いてしまっていたのだ。
これはあまり縁起のいい事じゃないので、早々に新しい財布を買わねばならないな。

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永田字中居(埼玉県深谷市)

しばらくぶりになってしまった旧花園町の城館まがい地巡り。
今回の探訪では最後になった永田字中居へ訪れた。

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八幡神社のある辺りが字中居との事。
早速写真中央にある八幡神社へ赴いてみる。

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参道が畦道になっていて車は通行不能(?)のようだ。
こうやってみるとなんとなくのどかでいい感じがする。

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少々日差しが強かったので、池のほとりにて一休み。
なんとなく堀に見えてしまうのがイケナイ症状。

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八幡神社より田んぼを挟んで向い側に長楽寺というお寺がある。
ここの境内には宝篋印塔や板石塔婆が設置されていた。
八幡神社を鬼門除けの配置とすると、中居の本体はこの長楽寺か?
でも遺構がまったくないのでなんとも言えず。

戦国末期には(おそらく猪俣党の)野邊氏がこの辺りに住んでいて、非常時には鉢形城へ駆けつけるようになっていたようである。
近くの石碑の名簿を見ると、今も野邊さんが数名居られるようである。

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マラソン推進方法考案

この所天気の悪い日以外は順調にマラソンさせてもらっている。
自分のやっているマラソンは本当に全て走るわけではなく、時折歩いて周りの風景を見たりしながら歩く。
特に薄明るい夜明け前のマラソンは最近気に入っており、蚊には刺されるが楽しく走らせてもらっている。

今は暑い季節なので結構薄着でやっているのだが、これをそのまま真冬まで行ったらどうなるだろう?
乾布摩擦の様に強靭な肉体が形成されていくのか?
でも走って体が熱くなるから丁度いいのかも知れない。

いずれにしても真冬になる頃には、もっと長距離を走れるようになるといいな。

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直実と四人の息子たち

熊谷市が誇る中世の英雄「熊谷次郎直実」、つい最近になってその息子が四人いる事を知った。
地誌『武蔵志』によると・・・。

●長男 熊谷兵衛尉直家

●次男 春原三郎直守

●三男 根岸四郎直頼

●四男 万吉五郎直純

彼らは在地の地名を姓としたようである。
さてさて、長男はそのまま父の領土や居館を受け継いだ事が容易に分かる。
(熊谷市の西に小次郎館という場所があり、そこに居住したのだろう)
四男の万吉氏に関しても熊谷市内に同じ大字が残っているので、その所在地は分かる。
(小字もそれらしい所があるので、なんとなく分かる)
問題は次男と三男の所在地である。

まずは次男の春原(しゅんのはら)氏について考える。
現在の埼玉県内大里郡付近には「春原」という大字は残されていない。
そこで活用したのはネット検索、すると春原村でヒットしたのは「御正村の内にあった」の語句。
御正村とは旧江南町のほぼ北半分に当たる地域で、現在残されている大字で言うと御正新田・成沢・樋春・押切・三本に当たる地域である。
これらの地域にある城館跡は「平山館」「成沢城」「三本館」「三本堀の内」とあり、これらの城館跡に春原氏が住んでいた可能性もある。
それより旧江南町の小字を調査すれば簡単に解決するようにも思えるので、後日再び調査に行く事になりそうだ。

してもっとも謎が深いのが三男の根岸氏
「新編武蔵風土記稿」によれば比企郡根岸村に熊谷次郎直実の子孫が住んだと書かれているので、その否定地として挙げられそうだ。
だが・・・比企郡根岸村という場所は現在の比企郡嵐山町大字根岸であり、場所が都幾川の南岸で埼玉の城館跡を訪ねられている人なら「大蔵館の近く」ですぐに分かると思う。
地図で見ても熊谷から直線距離にして約15kmもあり、熊谷四兄弟の中でなぜ三男が一族の居住地を離れて一番遠くに飛ばされたのか?と疑問が生じてしまう。
まだ子孫である根岸友山・武香の故郷である大里村の方が立地的に近く、居住地としての説得力があるのだが・・・。
地名によっては住んでいた武士の名を地名に名づけるケースもあるので、この根岸村は一時的に住んでいた事で名づけられたと仮定すれば少々納得いくかも。
(実際に根岸氏は戦国期松山城主上田氏に仕えていたので、戦国期はこの地に配属されたと考えれば自然である)

今週は絶好調に晴れていたのに、資料を読み漁っていたので城館探訪する機会を逃してしまった。
梅雨も明けた事だし、また次回それらを調べに行くとしよう。

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