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よく寝てしまったり

最近休みになるとぐ~っと寝てしまうことが多くなった。
こう言ってはいかんのだろうが、最近仕事が疲れますな。

夕方より用事を足しに出かける。
ついでに家電店に寄ってプリンタのインクを購入。
さらに15インチのディスプレイで頑張っている父に24インチのを購入しようかと思ったが、目ぼしいのが無かったので諦める。
それにしてもディスプレイもPCも本当に安くなったものだ。

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箕輪の北廓

ここはまがい地・・・ではなく一応城館跡とみなされている所。
小字もそのまま「北廓」と「中廓」がある。

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おお、こんなところにもう遺構が!
って思ったがちょっと様子がおかしい。

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ふむ、どうやら「とうかん山古墳」という古墳のようだ。
でもこんだけ住宅地にありながらこれだけの保存状態って凄い。
早速ではあるが、登らせていただく事に。

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なんだか上がった瞬間、「屋根より高い~古墳の上~」ってメロディが。
そうだ、今は五月だからそんな歌が出たんだと自身を納得させる。

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うーん、この辺りなんか一瞬山城なんじゃないかって錯覚を起す位に素敵だ。
ここは東松山市の野本氏館のように古墳を物見台に使っていたんじゃないかって思う。
肝心の城館跡は宅地化されて見られなかった。

この辺りには亀井六郎清重という者が槍を突いたら水が湧き出た「亀井の井戸」伝説がある。
もしかしてここに住んでいたのもその亀井六郎なのか?
今のところ謎である。

こんな感じで旧大里町のまがい地めぐりを終えた。
てかもう時間も夕方で、ちょいとヘロヘロになりながら帰宅したのだった。

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高本の高城町

今回のまがい地めぐりで最もハズレだと思ったのはこの字高城町。
「お?城と名づけてある!」っと思ってチェックしてしまい、訪問してみたのだが・・・

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うーん、集落すら無い所からして、かなりのハズレ感。
資料を今一度読んでみたら、どうやら「高城神社」があった事にちなむ名称であったようだ。
まがい地めぐりはハズレが多いけど、色々と見れて楽しいのでそれはそれで満足であったりする。

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沼黒の内屋敷


旧大里町の沼黒地区には正福寺という寺があり、その周辺の小字がとても魅力的なものがそろっている。
正福寺付近を字「内屋敷」、東側を「東屋敷」、西を「西屋敷」・・・まんまである。
そして南側には字「竹ノ内」という怪しさ満点の小字がズラリと並ぶ。
ふむ、これは調査しないわけにはいかない。

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その正福寺に来てみたが・・・どうやら無住の寺のように見える。
まずはそのお墓で最も立派な墓を探してみる。
意外と墓地がその地の土豪を弔った板碑があったりするので、ヒントを得る意味で探しに行く。

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ふむ、これはいい宝篋印塔だ。
手掛かりになりそうなのはこの宝篋印塔だけで、板碑などは見られなかった。
もっとも板碑の分布図などがあればよりよいヒントになるのであろうが・・・

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さて、周辺を歩いてみるが、当然堀や土塁などは見当たらず。
水路ならあるが堀に直結するのは安易過ぎる。
まがい地めぐりなんてこんな感じという典型的なケースであろう。
ちなみにこの集落は南西300mの所に和田吉野川が流れており、この集落はその自然堤防上に位置している。

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逆光で写真写りが悪いが西屋敷の方向。
茂みは丁度屋敷林のようで、周辺に比べて若干高い。

段々グルグルと周っている為か、住民の方々の冷ややかな視線をちょっと感じるようになってきた。
近くでワンちゃんも吼えている事だし・・・ここの調査は終了!

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屈戸の中廓

先の屈戸と同じ地名であるが、こちらはまったく場所が離れて荒川の堤防内。
ここは旧大里町屈戸字中廓と宮廓である。

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荒川の堤防上から屈戸字中廓(左側)と同宮廓(左側)を望む。
この辺りは荒川の川辺に集落があったのだが、昭和初期の堤防築堤に及んで立ち退きされたのだという。
川向の熊谷市新川もかっては村だったというが、現在は堤防の内側になるので住む人はいないという。
本題に戻って、この茂みは・・・実に興味が沸いてくる。
早速堤防を降りて行ってみる事に。

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堤防の内側にはなにやら道路が。
これは何だろう?っと思ったら看板があった。

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ふむ、どうやらテストコースらしい。
車か何かを走らすようで、テスト時には孤立できるように鎖で道を封鎖できるようだ。
幸い今は行っていないようなので、速やかに道路を渡る。
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写真じゃ分からないかも知れないが、茂みとその周辺の地形が高い。
明治時代の日本陸軍によって作図された迅速側図を見ると、僅かだがこの辺りには集落があったようである。
目の前に見える墓地もその名残で当時からある墓地なのだろう。
でもこの辺の墓石は「○○家奥津城」と書かれており、神道系のお墓が殆どであった。

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これは土塁?
いやいや、単なる土盛りでしょう。
どうもまがい地めぐりをすると、過剰反応になりがちである。

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茂みの方に近づくとこんな看板が。
確かに竹林になっていて、時期が悪いと竹の子泥棒と勘違いされてしまう。

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ふむ、これは土塁?でも内側(右)が堀って可能性も。
全ては竹薮となっているため真相不明。
結構気になる場所のひとつである。

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そのまま竹薮をつっきって河原へ
茂みのある辺りが川より5m程の高さがあるのがここに来て分かった。
先の看板にあった事もあるので、間違えられない内に退散する事に。

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変わって川上の方に歩いてきたら、こういう場所へ。
これだけ見てると城館遺構を見ている気分になってしまうが、この直下は荒川である。

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写真じゃ分かり辛いが、ここだけ少し高い所にあり、何も無ければおおよそ10m前後のスペースがある。
ここもなんとなく意味ありげな感じに。

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かくして調査終了。
それにしても河原岸の自然堤防上にあり、これだけの空間を擁しているのが気になる所。
中世期には荒川は現在の元荒川が本流であっただけで、こちらも分流が流れていた可能性は充分ある。
とすればここを城館跡と仮定すれば荒川の水運を見張る役割を果たしていた事は考えられる。
色々と妄想が沸き立つが、今は麦畑が風を受けながら揺れているだけである。

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