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大久保城(埼玉県富士見市)

富士見市の北端に大久保城という中世期の城がある。
その地は荒川と新河岸川が接近し乱流した地域で、大久保城の地形は二つの川に挟まれながらも小高くなっている。
昔から交通の盛んな地であったようで、現在もしきりに車が往来している。

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この辺りが大久保城があったとされる地域で、小字も「金子街道」という。
ここより南に居住していた難波田氏は元々金子氏の出である事から「金子氏の垣戸」という意味が含まれているのだろうか。
びん沼川は河川改修を行われる前の荒川であり、その乱流する流れに当時の暴れ川の面影を感じることができる。
写真手前の河は今でこそびん沼川となっているが、実際は新河岸川の放水路として新たに作られたものであろう。

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東大久保の交差点を越えて長往寺を訪ねてみる。
このあたりは字上手で、こちらも中世城館跡に馴染みのある地名である。
が、思ったよりお寺の本堂が新しいのでちょっとガッカリ。
建替えた可能性もあるが、寺の縁起などを調べてないのでなんとも言えず。

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寺の脇の県道沿いには暗渠化されて歩道になっている水路がある。
なんとも意味ありげにも思えるが、城館遺構というより灌漑水路であった可能性が高い。

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東大久保地区の西に接して低地があり、これがかっての新河岸川であったという。
明治時代まで江戸と河越を水運で結んでいた河川の姿は、草(芦?)が生い茂る低地となっている。
ここを幾たびも荷を積んだ舟が行き来していた事など難しい。

やはり中世城館跡を思わせる遺構は喪失していたようだ。
今回再訪問して思ったのは新たに作られたびん沼川の放水路に大久保城があったのではないかという仮説。
最近自分が愛用している明治時代の地形図「迅速測図」にはこのあたりはしっかり繋がっていて、民家も数軒建っていたように描かれていた。
丁度河川と街道が収束する地だけに交通の監視をするのにもってこいの地形で、今掘られているびん沼川に遺構があった可能性も考えられる。
とはいえ既に地形は変わってしまっている現在、想像でしか事を言えないのがもどかしい所である。

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