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森下やしき(埼玉県吉川町)


『わたしたちの郷土 よしかわ地名編』という資料の「保(ホ)」の項目に下記の記述がある。

「正保五年(一三一六)の松伏町大川戸熊野社古文書に十一月十一日、土佐法橋了弁の子息の能登房が熊野社の別当職に任ぜられた時に、森下やしき(吉川駅北側付近)の畑六十歩を寄進している・・・」

ここまで明確に屋敷の場所を明記されては、ちょっと行ってみないといかんという事で、何も無いのを承知で訪れてみた。

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それで昨日のブログに吉川駅北口の写真を掲載したという。
吉川市は隆盛を誇った水運がトラックなどの陸運に代わられて廃れ、衰退の一途を辿りそうになった。
そんな吉川市を救ったのはこの目の前を走る武蔵野線の登場であった。
お陰で町は息を吹き返し、吉川は市制を行うまでに蘇った。
駅前の「都内に直結する鉄道を」という看板が、いかにも悲願を達成したいという想いが伝わってくるようだ。

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っとブログを更新していて思ったのは露骨に駅前ではなかった可能性が高いって事だった。
上に書いた通り、この吉川は元々古利根川の水運を元に発展した街である。
となれば鉄道が開通して発展を遂げたこの駅前より、古利根川に近い西の方角こそ屋敷の推定地に相応しい。
うーん、また時期を見て再調査しに行かねばならんな。

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上南畑字本村内手(埼玉県富士見市)

富士見市の小字もしっかり調査したのでそちらも萎えない程度に並行して行う事にする。
大字上南畑には小字として「本村内手」と「上内手」の二箇所がある。
内手・・・この地名を聞いて行かない訳にはいかない。
かくして遺構すらなさそうな新河岸川沿いに到着した。

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上南畑地区のこの公民館のある辺りが本村内手だという。
この周辺は果樹園と田んぼと民家が入り混じっていて、ちょっと見ただけだと遺構は無さそうだ。
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今度は上内手と言われる付近を望んでみた。
うーん、ここも果樹園やらになっていて遺構は到底なさそうである。
近くで作業していた方に伺った所、この辺りの果樹園は梨がなるそうだ。

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ちょっと見晴らしの良さそうな堤防の上に立ってみた。
中央を流れるは新河岸川である。
堤防の上からちょっと見渡してみたものの、やはり中世期の城館跡に繋がる物は見つからない。

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当たり前のようだが、民家のある辺りは河川より高い位置にある。
かっては堤防が無かった訳だが、川が作り出した「自然堤防」によってある程度水害が防げたのがなんとなく分かる。
流石はまがい地だけあってそう簡単に城館跡の名残を見つけさせてくれない。

って事でここを後にしたのだった。


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砂久保字陣場(埼玉県川越市)

砂久保陣場・・・きっとこれを聞いて砂久保陣屋の方を思い出す人が多いと思う。
しかし、今回は中世城館跡と認識のある「砂久保陣屋」ではなく、「字陣場」の訪問なのである。

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その場所は川越市福原中学校から東に600mほど行った辺りにある。
ちょこっと雑木林が残されており、傍らから関越自動車道を通行する車の音が絶えず聞こえてくる。
地形だけで言えば北に向かって緩やかな傾斜になっている。
仮にここを本当に陣として利用したとすれば、北方に対する備えのように思えてくる。

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さっきの写真より北を向いて撮影してみた。
今でこそ民家などの建物が点在しているが、中世ごろであれば雑木林か原っぱぐらいしか無かったと想像できる。
「まがい地」巡りで遺構の期待は禁物だが、ちょっとぐるっと回ってみたい。

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傾斜地の上の方はまだ武蔵野の緑がよく茂っている。
この道沿いのこの地形なんか見ると林の方がやや高い感じがする。

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一歩林に入ってみると、そこは古く懐かしい武蔵野の雑木林が広がっている。
どんどんこういった雑木林が失われている、いつか武蔵野の雑木林なんて死語になってしまうおそれも。
もちろん城館跡と思える地形は無い。

って事でここでの収穫はなし。
思うに一時的にここに陣幕が張られた程度の物で、土木作業などは無かったのではないかと思う。
でも「陣場」は古に戦があった歴史を示す物だから、後世までその事を残して欲しい所。

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永田字中居(埼玉県深谷市)

しばらくぶりになってしまった旧花園町の城館まがい地巡り。
今回の探訪では最後になった永田字中居へ訪れた。

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八幡神社のある辺りが字中居との事。
早速写真中央にある八幡神社へ赴いてみる。

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参道が畦道になっていて車は通行不能(?)のようだ。
こうやってみるとなんとなくのどかでいい感じがする。

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少々日差しが強かったので、池のほとりにて一休み。
なんとなく堀に見えてしまうのがイケナイ症状。

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八幡神社より田んぼを挟んで向い側に長楽寺というお寺がある。
ここの境内には宝篋印塔や板石塔婆が設置されていた。
八幡神社を鬼門除けの配置とすると、中居の本体はこの長楽寺か?
でも遺構がまったくないのでなんとも言えず。

戦国末期には(おそらく猪俣党の)野邊氏がこの辺りに住んでいて、非常時には鉢形城へ駆けつけるようになっていたようである。
近くの石碑の名簿を見ると、今も野邊さんが数名居られるようである。

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小前田字西ノ皆戸(埼玉県深谷市)


元花園町小前田には「西ノ皆戸」と呼ばれる小字がある。
「皆戸」とは「垣戸」と読みが同じで、この垣戸という言葉もたまに武士の居館の名称として使われる。
この皆戸の前に「西」と付いている事からも「西にある垣戸(屋敷)」という意味にも受け取れる。
そもそも「西」とは何に対して西なのか?鉢形城の軍制で荒川衆と呼ばれる小武士団がいる。
『花園村誌」によれば花園の荒川地区に荒川衆が居たとされ、川端と只沢の二ヶ所を中心に居住していたようである。
となれば大字を跨いでしまっているが只沢の西に位置する当「西ノ皆戸」が荒川衆の屋敷の一つだったかも知れないという可能性が出てくる。
では早速「西ノ皆戸」を訪れてみる。

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手掛かりが無いので、最初に観音堂のあるところへやってきた。
一見静かな公園になっており、奥にはその観音堂がある。

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見るとここは初めて花園村が出来たときに、その村役場となった所のようだ。
こういう所にも近代の歴史が隠れている。

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しかもゴージャスに石碑付き。
今や深谷市の一部となってこれから先「花園町」の名前は人々から忘れ去られようとしている。
個人的には合併した後もこれまでの町名を使って行きたいものである。
(故に当サイトは平成の大合併以前の市町村図にこだわっている)

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さてさて、肝心の遺構はというと・・・それらしき場所が見当たらない。
もしかすると道路脇の水路がかっての堀なのかも知れないが、その確立は低そうだ。
中世期の歴史は閑静な宅地によって静かに埋没していくのを感じる。

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道を歩いていると多くの猫さんたちにめぐり合える。
殆どの猫さんは近づくと逃げるが、この位望遠にして撮影すれば実にのんびりしている。
まがい地めぐりだからこそ、地域の道をのんびり散歩できるのかも知れない。

結論、遺構はよく分からず。
って事で次の場所に移動する。

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