やってくれたぜ上里町 ネットで色々と調べていたら・・・上里町の小字リストを載せたサイトを見つけてしまった。 折角上里町役場で150円払って調査したのに・・・しかも先週。 でもお陰で堤堀の内の存在が濃厚になったそ、さらに帯刀氏の居住地も判明しそうだ。 帯刀氏に関してはその居館を字城ノ堀と思っていたのだが・・・ 字城ノ堀は今や立派な関越自動車道上里サービスエリアの敷地になって喪失確実だしなぁ。 でも良く地図を見ると字城ノ堀は大字五明に属しているようにも見えるのだが・・・この辺りが謎だらけ。 って事で、また北埼玉に出向く必要があるな。 [0回]PR
岡部をじっくり味わおう。 今日は天気が晴れるとの事で先週調べ損ねた旧岡部町を調べに行った。 岡部・・・益々興味を惹かれる事が出てきてかなりエキサイトしてしまった。 南から張り出した雲が北からの風で押し流されている模様。 この雲の広がりが鷹が大きく羽根を広げたような姿に見えてとても楽しかった。 元岡部町役場が開くまでの間、利根川の土手の上で赤城山の勇士を見ながらマッタリと。 城館跡に直接関係無いが実に気分がいい。 ただ風が結構冷たくなってきたので、車に乗りながら風景を楽しませてもらった。 写真は榛名山。 やばいぞ・・・こんな萌える名前の公園があるなんて・・・。 以前調査した時にはこれらの公園の存在を知らずにパスして勿体無い事をした。 ちなみにこれらは小字から命名されている。 数軒城館跡を回った後、群馬県伊勢崎市の図書館へ。 図書館自体は午後7時までだがコピーが5時までとは予想外だった。 時間ギリギリまでコピーを取り、外に出てみると妙義山の一つ金鶏山に沈む夕日を拝む事ができた。 ちっと電柱が邪魔になってしまったが、久々時間を掛けて日没を見守っていた。 そして夜になり、埼玉と群馬を往復してくれた我が愛車を綺麗にして帰宅。 西の空に三日月が浮いていてとても綺麗だった。 って事で今日の半分が中世城館に関わる事ではなかったが、それなりに充実した景色を見れて満足満足。 [0回]
児玉郡の小字調査 今日は天気が雲ってイマイチだったので、最初城館まがい地巡りしてきた。 本日のターゲットは児玉郡である。 尾根を区切る巨大な堀切・・・じゃありません。 予想するからに採石の跡だと思われる場所。 この辺りは全国でも有数の緑泥片岩の産地だっただけに近年になっても採掘された模様。 児玉郡の山はこういう場所が多い気がする。 その後もう一ヶ所行ったが、猛烈な藪で覆われていた為調査中止。 まがい地は人が踏み入れない場所だから、草木の枯れる冬場に限る。 って事で気になる場所の調査に秩父郡にちょっと足を踏み入れる。 調査の途中で観光地である宝登山(ほどさん)神社へ。 この宝登山のある長瀞町は埼玉でも有数の観光地、でも流石に連休明けの月曜日だったので人はまばら。 個人的には空いている方が好きなので丁度良い観光をさせてもらった。 その後気になる場所の付近で聞き込み調査を敢行。 都会だと「分かりません」「知りません」の一言で済まされるのだが、秩父の皆さんはこんな自分にも暖かく対応して下さるのでありがたい事。 確かに色々と有力な情報をいただいているのはいつも秩父郡の皆様からのような・・・。 それからサラリと山越えして児玉郡へ戻る。 月曜は軒並み図書館は休館日になっているので、役所や役場の税務課中心に徘徊する。 もちろんお目当ては「こ・あ・ざ」。 こちらの方の地籍図はかなり充実していて良い、お陰でこちらの小字をコンプリートできて幸せ。 ただ、上里町は地籍図閲覧だけでも150円かかった。 今度銅像シリーズしようかなっと思っていた矢先、元児玉町役場に塙 保己一(はなわ ほきいち)の像が。 中世の武士ではないので一枚しか撮らなかったが、こういう銅像がサイトの写真に飾れるだけでかなり見栄えが付く。 ちなみに塙 保己一とは江戸後期の学者で幼少に全盲の身になりながら学を極め、国内有数の学者になった凄い人。それもあってか本多静六博士も幼い時に祖父から「塙保己一の様に勉強すれば、目の見えるお前はそれ以上になれる」と激励の言葉を受けたとか。 ・・・かくして役所終了の17:15までに小字の調査をなんとか終えた。 こちらは○○廓とか○○屋敷って小字が非常に多く、調査範囲がより広く拡大。 困ったような嬉しいような・・・でも自分の事だから嬉々として調査に行ってしまうのだろうな。 薄暗くなった午後5時台になって、城館調査を再開。 この辺りの田んぼが中世武士の館跡だったって資料があるのだが・・・本当か?? 夕暮れ時は写真がブレやすく、どうしても美しい夜景が写せない。 三脚って必要なのか。 って事で昼寝(?)して無事帰宅。 これで明日から仕事を励める、ありがとう児玉郡。 [0回]
Kiteが心悩ませる 海道・貝戸・街道・・・みんな「垣戸」に通じる地名。 ここまで「かいと」って言ってると凧のKiteを思わされてしまう。 特に急上昇調査範囲になりつつあるのが「○○貝戸」。 この貝戸の地名が付く場所は、いずれも現在宅地になっている所ばかりである。 人の住みよい地形は当然中世期にも館跡のあった可能性がある訳で、隠れた城館跡があった可能性がある。 とある山間部の地名にこの貝戸が多く所在し、山間部にあるにも関わらずいずれも斜面に人が住んでいたのは個人的に驚いている。 内手(打ち出)に比べたら攻撃的印象より防御的印象が強い。 また「○○ヶ谷戸」に比べても堂々と建物を建てていた印象が強い。 「城」と「館」の明確な区切りが無いのと同様に、屋敷地も明確な線引きはないのであろう。 でもここまで語源として共通していたという事は当時から使われていた可能性もある訳で、この辺りはどういう使い分けしていたのかも気になってくる。 それが身分階級や使用用途に準じるものであれば、その居住者の身分や用途を見分ける良い機会になるのではと思っていたり。 今は疑問符付きの貝戸。 これからそれを明らかにする資料が見つかるといいな。 [1回]
横山党田谷・中野・矢古宇各氏の所在地を探れ 横山党田谷氏 一部の資料には北埼玉郡田谷村を領していたとされるが・・・ 現在の行政区で田谷と言われる場所は北埼玉郡に見当たらない。 北埼玉郡にこだわらなければ深谷市に田谷という大字がある。 現在熊谷市になる場所に奈良氏が居館を構えていた。 この奈良四郎の弟忠兼が田谷氏を名乗ったとされるので、奈良氏の館跡に程近いという点でこの地と推定できるかも知れないが・・・この辺りがよくわからん。 横山党中野氏 上記の田谷野五郎忠兼の長子師兼が中野次郎と称している。 一説には現在の東京都中野区とも言われるが、その領地は不明。 横山党矢古宇氏 上記の中野次郎師兼の子が矢古宇五郎を称した事により始まる。 矢古宇は現在の埼玉県草加市周辺とされており、草加村や谷塚村などが矢古宇郷に属していた。 後年その書きを「谷古宇」に改められ、江戸期に奥州街道草加宿として知られるようになる。 っと三代に渡って見て来たが、その所領がめまぐるしく変わっている。 中野氏はよく分かっていないが、大まかな居住地の分かる田谷氏と矢古宇氏に関して言えば比較的遠距離に移動している。 矢古宇郷は鎌倉時代から奥州街道の要所とされていたので、幕府より矢古宇の地頭に命じられたと考えられそうだ。 いずれにしても過去の資料が残されていない限りは迷宮入りのようだ。 [0回]