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柳沢兵部丞屋敷推定地(埼玉県大里郡寄居町)

埼玉県大里郡寄居町の今市地区には過去の調査で城館跡に直結する小字は見当たらなかった。
ところがある資料を読んだ所、江戸初期に「柳沢兵部丞」なる者がこの辺りに屋敷を構えていたのでは?というのを見て気になったので行ってみた。
あくまでその資料も「推定」なので、当然無い可能性もある。
故にここは「まがい地巡り」の一環としての訪問となる。

個人的に中世城館の手掛かりが分からなかった場合、その周辺の寺や神社を訪れる事にしている。
中世期は殺るか殺られるかの時代ゆえ、心の安らぎを求めるべく神仏にすがる人々が大変多かった。
当時の武士も例外ではなく自らの館に寺や神社を設け、その神仏の加護を得ようとしていたのである。
それが時代の流れと共に居住者である武士が去り、その居住地の神社仏閣がそのまま残るという事もかなりあった。
故に大方神社や寺に行ったりすると、城館跡に関する手掛かりなどがそこにあったりするのである。
前置きが異常に長くなったが、今回の今市地区も城館跡の手掛かりがない。
故にこの地区の中心付近にある「兒泉神社」、「高蔵寺」、「延命地蔵尊」の三箇所を中心に回って見る事にする。


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朝の鎌倉街道付近の様子。左に流れるのは市野川で、源流が先に訪れた牟礼地区というのをさっき知った。
写真は鎌倉方面を望んでおり、この辺りを鎌倉武士たちが駆け抜けて行ったのかと思うと感慨深いものがある。

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兒泉神社の鳥居を見る。
「兒泉」という字を見ると所沢市にある山口城の別名が「兒泉(ちごいずみ)城」なのを思い出す。
読みは分からなかったが、同じ読みなのだろうか?

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鳥居をくぐり、兒泉神社境内を見渡してみる。
うーん、鎌倉街道沿いで市野川に出っ張るようにあるので立地条件良さそうだったが、屋敷として使われたような感じに思えない。

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神社は周囲より一段と高くなっており(写真右側が神社)、なんとなくではあるが堀にも見えなくもないかも。
神社の境内が少々狭いのでここは城館跡ではないという印象が強かった。
では次に・・・

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次に近くの高蔵寺に来たが、ここは完全に城館跡ではないと思われた。
まだ寺の歴史を記した「縁起」でもみれば別なのであろうが、地形から見て遺構らしきものはまったくない。
では次に・・・

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ふと道端を歩いていたら、立派な屋敷林があったので拝見。
この中の竹林をちょっと見てみると・・・

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見る人がみれば分かるが末端が少々高まって見える。
丁度この集落の中心地付近なので、屋敷の有力候補になりうる場所になった。
では道を戻って次の場所へ。

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「延命地蔵尊」の本堂まで来た。
この周辺は主要道路らしく、丁度通勤時間となった為に車の往来が激しくなってきた。
お堂の前には「木造地蔵菩薩立像」の解説板があり、室町時代の作と推定している模様。
やはりこの辺りも屋敷の有力候補か?

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ふと周辺を見たら埼玉県内の鎌倉街道上道を案内した看板を発見。
折角なので拝見させてもらった所、現在タイムカプセル入りされている所沢市の勝楽寺城(一般では根古屋城の方が通りが良い)が紹介されていたので驚き。
勝楽寺城も見てみたい遺構なのだが、逆に子孫に「ありのまま」の姿で残してあげられる遺構として貴重なのかも知れない。
これはこれで面白い物を拝見した。

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先ほどの兒泉神社に戻ってくると、目の前には小川町の高見城の勇姿が。
この城って鎌倉街道を抑えた城なんだなっと改めて思うのであった。

って事で結論がまったく出なかったが、こういうまがい地巡りも好きなのでこれで良しとする。
かくして次なるまがい地に向けて移動するのであった。


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