下野国田園城館探訪ツアー その12 鷲城の力任せの遺構にちょっとげんなりしてしまった儀一であったが、活躍した時期が南北朝期であった事を考えればよく出来た城であったのだろう。 車で少々移動し、向かった先は同じ思川沿いにある長福城である。 ●長福城(栃木県小山市) 近くの広い道路に車を停めるが、この辺りは駐車禁止区域なので早々に帰ってこねば。 長福城の石碑が小さな公園の一部に設置されていた。 本当によく小山市は城館関連の石碑が建てられている。 遺構の規模はそんなに期待していなかったが、宅地にまぎれてデカイのがゴロリと。 住民から見れば単なる藪だから何も思うところは無いのだろうな。 思川に向かって小道があり、もしやここに遺構があるのではと期待して行ってみる。 そうしたら意味ありげな広場に、数年前までここで建築系の材料を作っていたような機材が散乱している。 それより目の前がもう思川の崖っぷちにあり、落差は相当な高さがありそうだ。 おそらくここも長福城の曲輪の一つであったと思われる。 戻ってみてもうちょっと石碑のあった公園付近を見ていた所、川に下りるような道が。 見方を変えれば長福城の堀の可能性もある。 遺構がまったく無い事を想定して来た割には、怪しげな地形が多い長福城。 城の半分ほどが宅地化されてしまっているので、かなり遺構が破壊されたように感じられる。 でもよく見るとこれは遺構だったのかも?っと思わされる部分も多数。 さて、路上駐車している車の所に戻り、次なる目的地へむかうのであった。 つづく [0回]PR
下野国田園城館探訪ツアー その11 ついに小山市街地に到達したという事で、題名の「田園」じゃなくなってきているが・・・まあいい。 次は城館探訪をされている皆様に人気が高い鷲城である。 ●鷲城(栃木県小山市) 小山市総合公園に車を停め、鷲城の方面を見る。 思川に突出した地形を利用した城で、鎌倉公方足利氏満に対し乱を引き起こした(一説にはケンカをふっかけられた)小山義政がここに篭城した事で有名。 実はこの公園に貸し自転車があるとの事で、祇園城と長福城を自転車で行けるか? っと淡い考えを起こしてしまったが、貸している自転車は5人乗りとかの特殊な自転車。 しかもこの公園内での利用制限との事で、自転車での探訪の夢は早くも挫折。 鷲城へは鷲神社に行けば良いらしい。 公園に車を停めたので、ちっと城への道のりが遠くなってしまった・・・。 まあ、下手な所に駐車して罰金取られるよりかはマシ。 っと歩いていたら、ふと城館遺構のある予感が・・・。 普段は感度の悪い我が城館レーダーが、この時はしっかり反応した。 あった!堀だ。 にしてもかなりデカイ。 小山義政公、気合が入りすぎでございます。 こういう虎口を見ると、結構ワクワクしてくる・・・はずなんだが。 なんかイマイチな感じがしてきた。 そんなこんなで鷲城の本曲輪である鷲神社へ到着する。 うーん、遺構の規模は確かに凄い、凄いんだが・・・何かが物足りない。 そのまま東に歩いていくと、解説板発見。 あら、ここは国指定史跡だったのか。 確かにアレだけの規模の堀があり、歴史背景もあればなりうる。 あ、ポストが備え付けてあったが、資料が入っているか見るの忘れた。 ここにも小山市の石碑が設置されている。 それにしても日差しが強くなってきた。 少々木陰で休んでから公園に戻る事にした。 遺構の規模は確かに凄いのだが、個人的に萎えてしまったのであった。 理由を後日考えてみたら、分かった事が一つある。 それは「力の無い土豪などが一生懸命なけなしの資産を投じて作った城館」に感じたあの魂が感じられないのである。 財力が無い代わりに地形と知恵で、堅固な城を築いているあの情熱が個人的に好きなのだろう。 ここを訪れた事により、遺構の乏しい城館が好きな自分を、再認識させられるとは思わなかった。 やはり遺構の乏しい城館跡を訪ね過ぎて中毒症状が起きたのかと思う。 でもそれでもいいのだ。 ・・・と思いながらも次の城館へ向かうのであった。 つづく [0回]
下野国田園城館探訪ツアー その10 小山の街の中心街に近づくにつれて住宅や工場などが密集するようになってきた。 次に目指す場所は曲輪である。 なんとも露骨なネーミングであるが、本当に曲輪という名前の城館である。 ●曲輪(栃木県小山市) 小山市史の地図によればJR宇都宮線沿いにあるとの事だが・・・住宅が密集している。 ここでも2往復も線路沿いをウロウロする。 うーん、まさかなっと思いつつ、国道50号線をくぐり、小山駅に近い所を探してみる。 すると・・・あった。 思ったより駅寄りであるのに関わらず、こんな土塁があろうとは・・・ ただ、車を停める場所が無いので、ちょっと離れたドラッグストアにて買い物を兼ねて停めさせていただいた。 そこから遺構まで少々距離はあるが、丁度いい散歩コースであろう。 ここにも立派な石碑が。 この石碑の名もまた「曲輪」である。 土塁を別角度から。 それにしてもこれだけ宅地化されつつもよく破壊されなかったものだ。 小山市史に掲載されている遠景を今で撮るとこんな感じ。 さすが30年前とは風景が全然違う。 恐らく30年前の撮影場所も、今の東北新幹線の高架下あたりになるはずだが、鉄道用地であるため側道からの撮影となった。 それでこの場所が遺構の中心のはずだが、土塁ほどのインパクトはなく。 ここを発掘調査してたとしたら、小山氏に関わる遺物が発見されたのかも。 もし調査がなされてなかったとしても、宅地になってなければ希望がありそうだ。 歴史が不明な遺構の割りに巨大な土塁。 あれだけの工事量を考えれば、この辺りを治めていた小山氏の居館説もうなずけるかも知れない。 暑い日差しの中、車に戻り次の城館へ向かうのであった。 つづく [0回]
下野国田園城館探訪ツアー その9 塚田館の遺構の無さは、今思うと自分好みなのかも知れない。 「遺構が明確に残されていない=想像する余地がある」 っという事にもなるからだ。 またまた細い道をグネグネと這いくぐって、国道4号線バイバスへ。 バイバス線から見える城が中久喜城である。 ●中久喜城(栃木県小山市) 小山と結城の中間に位置する為、中世期においてはかなり重要視された城だろう。 ある意味今でも近くが国道4号線と50号線の交差地点なので、交通の要衝となっている。 さて、何処から入るのかとグルグルと2週ばかりしてしまった。 ぐるっと回ってばかりだったが、アングル的にはこの国道4号から見た中久喜城が一番いい感じだ。 流石にすぐ側を車が高速運転しているので、ハザードランプを付けながら車内で撮影。 ドアを開けて一歩でも外に出ようものなら、すぐに轢かれてしまいそうなこの恐怖。 一通り周りを撮影して、県道264号線より細い路地を入り城の見学に向かう。 ここにも立派な石碑があった。 もっともここほど遺構が残っていれば、石碑の存在も当然と思える所も。 なお、その背後は空堀になっているようだが、藪が凄そうで入る気にもなれない。 噂には聞いていたが、こうやって図を見ると見事に線路が城内を貫通している。 城内で削られた土塁は低地の築堤に使われたと安易に想像できる。 分断された城の北側の土塁上。 ここだけ見てもかなり興奮してくる。 ・・・さて、分断された南側の遺構はどういけるのやら? 近くで農作業されてる方に線路の向こう側への行き方を訪ねたら、 ここの踏切を渡っていくように勧められた。 それにしても踏切名が思い切り「城山踏切」と書かれている辺り、城を破壊したのが確信犯的に見えてしょうがない。 踏切を越えて道沿いを歩いていくと土塁にお目にかかれる。 ・・・立派な遺構があるのだが、藪が凄くて写真にならないのが残念。 藪同様に目に付くのが「ゴミ捨て禁止」の看板。 城跡って所は何処も不法投棄の餌食になってしまうのだな・・・。 更に道沿いに歩いていくとステキな土塁を発見。 って事はこの道は空堀?それとも武者溜り? そんなこんなで本曲輪に到着。 う~ん、見事に農地になっとるのう。 このままの状態で置かれるのなら、いっそ史跡公園にでも・・・ いや、生活に溶け込んでるようで浮いているこの状態でも魅力ある。 それはさておき、全体的に藪が凄くて遺構が見渡せないのが残念である。 帰りに城内を轟音立てながら爆走する電車を見送る。 この電車に乗っている人たちで、ここが城跡であると知っている人はどの位いるのだろうか? 帰る際に色々と教えてくれた農作業中のご夫婦に、篤くお礼を申し上げた。 ちなみにこの辺りは史跡区域(だったかな?)になっていて、農地はできるが建物は建てられないそうだ。 確かに宅地になってしまったら、再び遺構が地表に現すのは下手すれば数百年後。 鉄道によって遺構が破壊されつつも、保護されている事に安心してしまったり。 って事で中久喜城を後にして。いよいよ小山市の中枢部へ向かう事にした。 つづく [0回]
下野国田園城館探訪ツアー その8 網戸城を訪問し終え、今度は間々田の集落を乗り越えて東へ。 今回の城館探訪は北に向かいジグザクに動いているような・・・ まぁその方が所在地を見た上で訪問し易いと判断したからである。 東北新幹線をくぐって行くと、なんとなく森が多くなってくる。 途中からその森の小道を通り抜けて行くと、目指す塚田館がある。 ●塚田館(栃木県小山市) 森を抜けたら目の前が畑などが出てきて、とても広くなった。 小山市塚崎はかって鎌倉街道が走っていて、今回目指す塚田館はその沿線に所在する。 塚崎の氷川神社が館跡の西隅に位置するという。 『小山市史史料編・中世』によれば明治三十九年頃までは土塁と堀が残されていたというが、 現在となっては壊され畑となったようである。 またもゴツい石碑を発見。 遺構の消滅した館跡にもこの様な立派な石碑が建てられている事に驚きを感じる。 この辺りが館跡の南端部に位置すると思われるが、 めぼしい遺構は残されていない。 木の根元がなんとなく盛り上がっているように見えるのは気のせいか? 館跡の西側にあったという鎌倉街道を探してみた。 しかし、畑になっていて、どれがその道筋かすらも分からなかった。 一応館跡の西にある農道を街道に見立てて写真撮影。 この道も南下すると公道に出て途切れる。 元々遺構が無いと分かりながら来た塚田館。 そんな乏しい城館遺構が、古き時代の遺構へ思いを馳せさせるのかも知れない。 有力な遺構を発見する事無く、次なる城館跡へ向かうのであった。 つづく [0回]