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陣所も堀はつくられた

さっきネットみてたらこんな記事見つけた。

山崎の戦い、堀跡が出土 明智光秀の本陣守る?

 

同ページに掲載されている堀をみると、短時間で作ったと思えないほど深い。
これを見ると短時間でも大勢の人手が加われば是だけの遺構が作られるという事か。
ただ、元々あった要害を本陣にしていた可能性も考えられるので、一概に光秀が築いたとも言いがたい気もする。

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八月に遠征計画

八月に有休を頼んだら見事にいただけたので、思い切り遠くの城館跡を見てこようと思っている。
さて?遠くって言っても多くの城館跡があるのだが・・・
先に埼玉県にゆかりの多い所から訪問していこうと思っていたり。

予定としては夜行を使って移動と宿泊を兼ねて、更にレンタカーを使って機動的に動く予定。
丸二日フルに動けるようにして、再び夜行で帰るものなり。
ただ、夜行の時間が遅いので、それまで何をして待機しているかが問題だったりも。
調べてみたら図書館も夕方6時で閉まるみたいなので・・・それまでどこかで仮眠か?

もう決行日は一ヶ月以内になっているので、予約関連は早めに行っておく必要がありそうだ。
予約もそうだし、事前の予習も必要であろう。
って事でしばしネット検索で情報を収集するのであった。

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深谷上杉四天王

深谷上杉氏にはその代表的な家臣を総称する名が幾つかある。
三宿老といえば岡谷氏・秋元氏・井草氏で、これに矢井氏を加えて四宿老と呼ばれる場合がある。
七武将といえば秋元越中・岡谷左馬助・新居志摩・大沼越後・萩谷加賀・大類丹後・多賀谷大学となる。
そして本題の「四天王」と呼ばれると岡谷加賀守・秋元上総守・井草左衛門・上原出羽守となる。

ちょっと興味があってこの四天王の居館を調べてみた。
筆頭ともいうべき岡谷氏は皿沼城・曲田城があった。
秋元氏には秋元城ともいうべき秋元氏館。
井草氏には岡部西田にあったとされる西田の館。
上原氏には今の川本地区の上原。
・・・であったと推測される。

でこの配置をよーく見てみたら、深谷城を四方で守っているようにも見える。

          (北)岡谷氏

(西)井草氏    深谷城    (南東)秋元氏

          (南)上原氏

「四天王」という名称がそう見えさせてしまうのか分からないが、深谷城を守るように四方に配置されているように見えるのがちょっと凄く感じてしまったのだった。

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直実と四人の息子たち

熊谷市が誇る中世の英雄「熊谷次郎直実」、つい最近になってその息子が四人いる事を知った。
地誌『武蔵志』によると・・・。

●長男 熊谷兵衛尉直家

●次男 春原三郎直守

●三男 根岸四郎直頼

●四男 万吉五郎直純

彼らは在地の地名を姓としたようである。
さてさて、長男はそのまま父の領土や居館を受け継いだ事が容易に分かる。
(熊谷市の西に小次郎館という場所があり、そこに居住したのだろう)
四男の万吉氏に関しても熊谷市内に同じ大字が残っているので、その所在地は分かる。
(小字もそれらしい所があるので、なんとなく分かる)
問題は次男と三男の所在地である。

まずは次男の春原(しゅんのはら)氏について考える。
現在の埼玉県内大里郡付近には「春原」という大字は残されていない。
そこで活用したのはネット検索、すると春原村でヒットしたのは「御正村の内にあった」の語句。
御正村とは旧江南町のほぼ北半分に当たる地域で、現在残されている大字で言うと御正新田・成沢・樋春・押切・三本に当たる地域である。
これらの地域にある城館跡は「平山館」「成沢城」「三本館」「三本堀の内」とあり、これらの城館跡に春原氏が住んでいた可能性もある。
それより旧江南町の小字を調査すれば簡単に解決するようにも思えるので、後日再び調査に行く事になりそうだ。

してもっとも謎が深いのが三男の根岸氏
「新編武蔵風土記稿」によれば比企郡根岸村に熊谷次郎直実の子孫が住んだと書かれているので、その否定地として挙げられそうだ。
だが・・・比企郡根岸村という場所は現在の比企郡嵐山町大字根岸であり、場所が都幾川の南岸で埼玉の城館跡を訪ねられている人なら「大蔵館の近く」ですぐに分かると思う。
地図で見ても熊谷から直線距離にして約15kmもあり、熊谷四兄弟の中でなぜ三男が一族の居住地を離れて一番遠くに飛ばされたのか?と疑問が生じてしまう。
まだ子孫である根岸友山・武香の故郷である大里村の方が立地的に近く、居住地としての説得力があるのだが・・・。
地名によっては住んでいた武士の名を地名に名づけるケースもあるので、この根岸村は一時的に住んでいた事で名づけられたと仮定すれば少々納得いくかも。
(実際に根岸氏は戦国期松山城主上田氏に仕えていたので、戦国期はこの地に配属されたと考えれば自然である)

今週は絶好調に晴れていたのに、資料を読み漁っていたので城館探訪する機会を逃してしまった。
梅雨も明けた事だし、また次回それらを調べに行くとしよう。

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猿喰土村の謎

かっての花園村大字武蔵野に「猿喰土(さるがいと)村」という近世頃の村があったという。
その位置は「東に北根村、南に荒川村」とあるので現在の深谷市大字武蔵野のほぼ東部に位置する場所になると思われる。
この「猿喰土(さるがいと)村」、読みによっては猿(ま)喰(く)土(つち)とも読めるような気がしてしょうがない。

「まくつち」の発音で思い起こされるのは、武蔵七党猪俣党の一族である「幕土氏」。
藤田能兼の長子能行の子重国が「幕土五郎」と称しており、鎌倉幕府滅亡時に新田義貞に従って強弓で名を馳せた幕土六郎左衛門尉がその子孫であるという。
いままでその居住地は不明とされていたが、この旧花園村辺りは猪俣党の勢力が強かった地域ゆえに同じ猪俣党の幕土氏が居住していても不思議はない。
また、系譜図を見ると小前田氏の祖である信国から見て幕土五郎重国は甥にあたり、藤田氏流の系統が旧花園町を支配していたという共通点からも、この地に幕土氏が居住していた可能性は充分考えられると思う。

ただ読みが(さるがいと)と呼ばれているのが引っかかる。
地名に関して言えば漢字の書きはよく変わるが、音(発音)が変わってくるというのはそうない。
今回の件は猿喰土と幕土の漢字は違う上に読みも「さるがいと」と「まくつち」で違っている。
共通する点は「猿喰土(さるがいと)」が「猿喰土(まくつち)」とも読めそうだって事だけなのである。

他の文献にも残されていない幕土、それをこの近世の猿喰土村に当てる事は良いのか悪いのか?
結構考えたりもする。

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