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武蔵野字竹ノ内(埼玉県深谷市)

元花園町武蔵野地区に「字竹ノ内」という地名がある。
竹が周囲を囲っていた地という意味でもあるが、「舘ノ内」にも通じる事もあるため中世城館探訪としては見逃す事ができない地名の一つ。
館の周囲を竹で囲っている事も名前の由来になっている場合がある。

さて、その竹ノ内だが・・・

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・・・。
思い切り農地及び鉄道敷地になっていた。
それにしてもこの辺りは周りが広々としていて好きだが、城館遺構がありそうに見えないが残念だ。

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反対側も広々していてその辺りは気分がいい。
中世期の居館であればその地域でも人が住むのに適した地形であるゆえに、現在でもお住まいの方がいる事が多い(特に低地にその傾向が見られる)
ここ位小高い台地だと水害の危険は無いが、代わりに水の確保が苦労された事だろう。
西には飯塚氏館があるのでいくらかは小川が流れていたとは思うが、街道筋から外れて周囲は農地以外何も無いため館を築くのに向かない地形であったと思われる。

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八高線のディーゼル車が広々とした櫛引台地を駆け抜けていく。
中世城館としての収穫はなかったが、こんな風景を見ることができたのは良かった。

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吉田字馬場(埼玉県比企郡嵐山町)

埼玉県比企郡嵐山町の吉田地区には、もう一つ気になる地名がある。
それは「字馬場(ばんば)」である。

馬場とは中世期の城館跡を探訪されている方ならご存知の通り、中世の武士たちが馬に乗って調練した場所に名づけられる場所である。
字馬場より東に400mには中世城館跡である滑川町の「泉福寺館」が所在しており、そちらの馬場である可能性も・・・なくはない。
ではその現地に行ってみよう。

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字馬場の地形は西が丘陵で、東は滑川が作る低地になる。
そんな滑川を見渡せるような場所にちょっと広い空き地があったりもする。
その他グルグルと回ってみたが、目ぼしい物は当然ない。
ならばこの丘の上にある宗心寺を訪ねて見る事にした。

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坂を登っている途中で立派な墓石のある墓地を見つけた。
みればこれから向かおうと思っていた宗心寺の開基である折井氏・田中氏の墓所だとか。
『嵐山町誌(実は二冊あって、その内の昭和58年版)』によれば、折居市左衛門が比企郡吉田村に4百石の知行を得ていた事が分かった。
旗本であれば知行された土地の中で、最も江戸に近い領地に屋敷を構える傾向があるようだ。
(江戸に出向するのに近い方が便利だからだろう)
折井氏の領地と石高はここ吉田村の他に、児玉郡西富田村二六〇・四方田村一四〇・山王堂村五四(以上現本庄市)・大里郡春野原村一二五(現熊谷市樋春)・男衾郡千代村七五(現熊谷市)・常陸国真壁郡倉持村一四五(現筑西市)となっている。
もし在地していれば江戸に近い立地条件や広い領地から見て、この吉田に居た可能性は高いだろう。

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何気に宗心寺の周囲の道路なのだが、クランクしているのが気になってしまう。
ここまで登ってくると結構見晴らしは良い。

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寺の近くには謎の墓石が・・・と思ったら墓石ではなく何かの碑のようだ。
寛政年間に作られたようだが・・・何らかの目印なのであろうか?


っという感じで調査をしていたが、急な眠気が襲ってきたので今回はこれまで。
嵐山もまだ調査をしていないところが多いので、早期に再訪問したいものである。

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吉田字陣屋東(埼玉県比企郡嵐山町)

埼玉県比企郡嵐山町の吉田地区にもとても興味を惹かれる「字陣屋東」なる小字が存在する。
陣屋・・・陣場同様に中世期では合戦時に軍隊を収容する営舎を指していたが、近世になり大名の住む城郭に満たない役人の詰め所を指す言葉になっている。
今回の吉田の陣屋がどちらかはよく分からないが、末端に「東」と付いている以上陣屋の東側を指す地名と思われる。
という事は西隣りの小字はっというと「字西之谷」であり、その中間に陣屋があったと見るべきか?

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目の前にある丘(写真だと森に見える)が目指す字陣屋東である。
田んぼを隔てた北にはかって甲斐の国への街道の名残と言われる現県道11号線が走っている。
そういう意味で見ると先の陣屋の定義からすると、戦中の陣所と見るのが自然か?

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字陣屋東の中心を車一台分の車道が南北に貫通している。
さっきの遠景を見てもこの道路の東側の方が陣を構えるのに相応しくも思えるので調査してみる。

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この辺りの民家の一部はこの丘陵上に建てられており、特に写真の切り株のある所が土塁に見えてしょうがない。
それよりこの丘陵の上を調べてみる必要があるな。

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さっきの土塁に見える高まりより高い所から見てみると・・・やはり土塁に見えてしまう。
故意にこういう形状にしているのか?あるいは本当に陣屋の跡地を利用して家を建てたのか?
とても興味深い。

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丘の上は藪かと思いきや、数軒の墓地になっていた。
結構上の方は削平されており、墓地造成によるものかと思えるが、同様の墓地を見てもここまで削平されているところはそんなにない。
やはりここには何かあったのだろうか?

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丘を東西に跨ぐ里道を撮影してみた。これだけ見ると堀にしか見えない。
でもこの里道もここまで掘り下げているのが気にはなる。

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先の切通し状の里道の南は、これまた削平された農地。
確かに農地なら削平されていても不自然ではないが・・・全体的に丘に手が加わったような気してしまうのであった。

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お墓越しになってしまったが、丘から麓を見下ろしてみた。
向こうの民家の高さを基準にすれば、3~4階ぐらいの高さはあるだろうか?
場所としても先の甲斐へ続く街道が北を走っており、さらに北に2kmぐらいには元江南町の塩館や常安寺館があり、もしここが陣屋であったとしたらどんな関連があったのか興味が沸いてくる。

そんな事で次の場所へ移動するのであった。

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古里字中内手(埼玉県比企郡嵐山町)

この所プライベートに忙しくてブログが途切れてしまった。
って事で以前のまがい地めぐりの続きを・・・

ここから埼玉県比企郡嵐山町のまがい地巡りである。
最初に訪れたのは嵐山町の最北である古里地区にある「字中内手」から。
古里地区のほぼ中央に「兵執(へとり)神社」があり、その辺りが字中内手である。

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初夏の日差しの照らされる中、ちょっと小高い所にある兵執神社へ訪れた。
この神社、名前がなんとなく軍隊を思わせる名前なのが気になるが・・・早速境内へ。

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境内に入ってちょっと振り返った所。
丘の南斜面に位置している為、南方の眺望にやや優れる。
このまったり具合がなんとも癒される。

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兵執神社本殿が奥にある。
緩やかな斜面ではあるが、この神社自体はよく削平されている。
神社だとこの位は整備されている物なのかも。
一応お賽銭を入れて安全な城館探訪を祈願する。

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でもこういった削平地を見ただけで城館跡を連想してしまう辺り、自分は立派な生活城館病。
しかし、小字・立地条件とくれば、そういう視線が強くなってしまうもの。

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兵執神社のある丘の頂上は何故か運動場になっていた。
人っ子一人いない運動場、かっての地形が失われてしまっていて、もはやかっての姿を思い浮かべるより他はない状態。

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ここからは番外編。
中内手より南の集落は「字内手」となっているが、館跡を思わせる地形は見られなかった。
代わりに消防貯水庫にかっての村名「菅谷村」と書いてあるのが気になった。
幾ら本多静六博士の命名である「武蔵嵐山」とはいえ、かってからの地名である「菅谷」も大切にして欲しい所。

かくして次なる場所に移動するのであった。

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西古里字屋敷附(埼玉県大里郡寄居町)

西古里という地名は大里郡寄居町と比企郡小川町の両方にあるが、今回は寄居町の方の西古里である。
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寄居町西古里の矢弓神社付近が屋敷附という小字になっているのだが・・・
さて、何処が屋敷だったのかが焦点になりそうだ。

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一応屋敷林を所有するこの旧家あたりが怪しいと思い、ちょっと周りを歩かせていただいた。
すると・・・

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む?これは堀?
いや、おそらくは右側の畑が高くなっているだけなのかも知れない。

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この辺りは轟さんのお墓が多く、墓石を見ても高級感漂う仕様になっている。
そういえば先の「陳場」付近でも同じ読みの舎利弗(とどろき)さんのお墓がたくさんあった。
もしやこの辺りはこの轟さん一族が支配していた土地だったのか?
もうちょっとこの付近の歴史などを調べてみる必要があるだろう。
念のため「舎利弗」さんをネット検索したら、圧倒的に釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)が出る。

かくして寄居町の謎の小字巡りツアーはこれにて一旦終了。
次からは嵐山町の謎の小字をちょっとだけ回ってみる。

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