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鷹巣字陳場(埼玉県大里郡寄居町)

ついに気になってしょうがなかった「陳場」へ訪れることとなった。
寄居町の小字の調査をしている時、「場」なる地名があり「明らかに場の間違いだろう」と思っていたので、これが誤爆で終わるかどうか?楽しみである。

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陳場と呼ばれるところは比較的小高い丘になっていた。
北側は民家と畑になっているが、南半分は雑木林となっている。

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陳場付近からも高見城が望める環境で、距離も直線距離にして大体1.8km程ある。

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畑の脇に雑木林の中の墓地への道があるので、そこを利用して雑木林へ移動してみる。
今回は流石に藪の可能性もあるので藪突撃装備をしての侵入である。

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一応平たく感じるが・・・自然地形とも言えなくもない。
周囲を回れるだけ回ってみよう。

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西側はかっての道であったようで、多少窪みがある程度で堀とまでいかない浅さである。
ただこれより西は徐々に地形が落ちて、脇の農業用のため池に直行する。
流石にため池に落ちては危ないのでこちらはこの辺りで引き返す事に。

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む!?なにやら不自然な窪みを発見。
少々浅いものの、自然地形にしては手のかかったような窪みである。
窪みはおおよそ2mほどの長さで、意味もなく唐突に掘られているような感じである。
うーん、これだけじゃ分からないので、陳場の南東には細く伸びる尾根があるのでそこへ行ってみる。

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更に長い溝が登場した。
深さはおおよそ50cmほどだが、何故か尾根を斜めに区切っているように見える。

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里道か?あるいは堀切か?
でも堀切にしては浅いのでなんとも判断の難しい場所である。
なお、ここより先に行ってみたが、竹薮が激しくなってきたので撤収した。
我がら武蔵直登の猛者の皆様なら突撃しそうだが、ヘタレな自分はそのまま引き返してしまったのだった。
藪の中ではあるが、100m東を関越自動車道が走っている為、車の走行音が絶えず響き賑やかである。

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そのまま丘の東をグルッと回ると竹の群生している場所へ来る。
竹の生えてる所は竹が生え広がるのを防ぐための「根除け堀」の可能性もある為、城館遺構と判断するのは早計である事が多い。
もう農地に近いことからもこれは道であった可能性もある。
なお、肝心の尾根続きは民家や農地になっている為、現時点での地形では判断が難しいと思われる。

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陳場を南側より望む。
両脇を谷津に囲まれた地形で、要害の地に見えてしまう。
なお、地元の方に陳場について訪ねた所、読みは「じんば」であるという。
やはり登録する際に誤って陳と書いてしまった可能性が充分高まったのであった。

色々と謎の残る陳場、ここは色んな方に来てもらい、あの溝の謎を考察して貰いたいものである。
陳場の場所 → 地図へ

かくして次なるまがい地へ向かうのであった。

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柳沢兵部丞屋敷推定地(埼玉県大里郡寄居町)

埼玉県大里郡寄居町の今市地区には過去の調査で城館跡に直結する小字は見当たらなかった。
ところがある資料を読んだ所、江戸初期に「柳沢兵部丞」なる者がこの辺りに屋敷を構えていたのでは?というのを見て気になったので行ってみた。
あくまでその資料も「推定」なので、当然無い可能性もある。
故にここは「まがい地巡り」の一環としての訪問となる。

個人的に中世城館の手掛かりが分からなかった場合、その周辺の寺や神社を訪れる事にしている。
中世期は殺るか殺られるかの時代ゆえ、心の安らぎを求めるべく神仏にすがる人々が大変多かった。
当時の武士も例外ではなく自らの館に寺や神社を設け、その神仏の加護を得ようとしていたのである。
それが時代の流れと共に居住者である武士が去り、その居住地の神社仏閣がそのまま残るという事もかなりあった。
故に大方神社や寺に行ったりすると、城館跡に関する手掛かりなどがそこにあったりするのである。
前置きが異常に長くなったが、今回の今市地区も城館跡の手掛かりがない。
故にこの地区の中心付近にある「兒泉神社」、「高蔵寺」、「延命地蔵尊」の三箇所を中心に回って見る事にする。


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朝の鎌倉街道付近の様子。左に流れるのは市野川で、源流が先に訪れた牟礼地区というのをさっき知った。
写真は鎌倉方面を望んでおり、この辺りを鎌倉武士たちが駆け抜けて行ったのかと思うと感慨深いものがある。

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兒泉神社の鳥居を見る。
「兒泉」という字を見ると所沢市にある山口城の別名が「兒泉(ちごいずみ)城」なのを思い出す。
読みは分からなかったが、同じ読みなのだろうか?

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鳥居をくぐり、兒泉神社境内を見渡してみる。
うーん、鎌倉街道沿いで市野川に出っ張るようにあるので立地条件良さそうだったが、屋敷として使われたような感じに思えない。

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神社は周囲より一段と高くなっており(写真右側が神社)、なんとなくではあるが堀にも見えなくもないかも。
神社の境内が少々狭いのでここは城館跡ではないという印象が強かった。
では次に・・・

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次に近くの高蔵寺に来たが、ここは完全に城館跡ではないと思われた。
まだ寺の歴史を記した「縁起」でもみれば別なのであろうが、地形から見て遺構らしきものはまったくない。
では次に・・・

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ふと道端を歩いていたら、立派な屋敷林があったので拝見。
この中の竹林をちょっと見てみると・・・

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見る人がみれば分かるが末端が少々高まって見える。
丁度この集落の中心地付近なので、屋敷の有力候補になりうる場所になった。
では道を戻って次の場所へ。

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「延命地蔵尊」の本堂まで来た。
この周辺は主要道路らしく、丁度通勤時間となった為に車の往来が激しくなってきた。
お堂の前には「木造地蔵菩薩立像」の解説板があり、室町時代の作と推定している模様。
やはりこの辺りも屋敷の有力候補か?

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ふと周辺を見たら埼玉県内の鎌倉街道上道を案内した看板を発見。
折角なので拝見させてもらった所、現在タイムカプセル入りされている所沢市の勝楽寺城(一般では根古屋城の方が通りが良い)が紹介されていたので驚き。
勝楽寺城も見てみたい遺構なのだが、逆に子孫に「ありのまま」の姿で残してあげられる遺構として貴重なのかも知れない。
これはこれで面白い物を拝見した。

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先ほどの兒泉神社に戻ってくると、目の前には小川町の高見城の勇姿が。
この城って鎌倉街道を抑えた城なんだなっと改めて思うのであった。

って事で結論がまったく出なかったが、こういうまがい地巡りも好きなのでこれで良しとする。
かくして次なるまがい地に向けて移動するのであった。

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牟礼字蔵屋敷(埼玉県大里郡寄居町)

ようやく画像の容量を増やしていただけたので、まがい地めぐりの続きを書く事に。
素人同然の自分の城館まがい地巡りが皆さんの役に立てばいいなっと思う反面、見られてなかったら自分の備忘録にしようかと思案しているのであった。

さて、牟礼地区シリーズもこれが最後、「字蔵屋敷」である。
先の「字堀の内」と「字新屋敷」に比べて遺構のあった確立が低い場所ではあるが、それでも見に行く事に。

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牟礼地区の信号を北にちょっと行った辺りが字蔵屋敷。
・・・確かに蔵のある家はあるが、中世期の屋敷があった雰囲気がちょっとない。
ここは更に後(東方)の丘を調べてみる手があるが、ヘタレなので今回もパス。

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その傍らには謎の館「よりいトンボ自然館」なる施設が。
流石に早朝なのでやっていないが、寄居はそんなにトンボで栄えているのか?
気になってネット検索したら・・・一応運営サイトがあった。

→「寄居町にトンボ公園を作る会

しかも先の「寄居の尾瀬」は「男衾トンボ公園」なる名称があった事が判明。
この施設と併合してトンボと触れ合う機会を設けているようだ。

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玄関にはお手製の看板が掲げてあり、

「毎週 日曜 祭日
午前十時より午後四時まで
入館無料」

とある。
当方、トンボにはあまり興味ないがご興味のある方が居られたら訪ねられてもいいかも知れない。

むむ、城館探訪からトンボ館探訪になってしまったり。
って事で牟礼地区を離れ、次なる場所へ移動するのであった。

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牟礼字新屋敷(埼玉県大里郡寄居町)


埼玉県大里郡寄居町牟礼の字堀の内から歩いてちょっとの所に「新屋敷」という小字がある。
この辺りは他の中世城館資料等ではまったく認識の無い場所なのだが、「堀の内」に続き「新屋敷」とちょっと中世城館跡にゆかりのある小字が残っているのが印象的である。
先の堀の内でも書いた通り、この牟礼地区は高見城から鉢形城への街道の沿線上にあったと思われ、個人的にはちょっと期待している地区でもあるのである。

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牟礼地区で信号のある交差点を鉢形城方面へ歩いていくと、なにやら湿地帯が?
一応地図にも緑地として表示されているが、特に名前がない。
仕方ないのでここを仮名「寄居の尾瀬」と呼んで置くことに。


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早朝の「寄居の尾瀬」はいたって静か。
こうして朝日の方角を向いていると、とても埼玉県寄居町にいるとは思えない光景が広がっている。
近くに民家があるが、とても良い自然が残されていると思った。
さて、この「寄居の尾瀬」の脇を通過し、目指す字新屋敷はこの奥である。

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先へ進んで見ると途中で未舗装の道になる。
調べた所ではこの辺りから字新屋敷」なのであるが・・・

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ピキーン!!
ふと北側の斜面を見たときに感じ取った、この上に平場がある。
本当は民家脇から行くようだが、強引にこの斜面を直登して馳せ参じる事にした。

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・・・そこにはとても美しい平場があった。
この削平具合をみれば明らかに人の手によって平場が作られた物である。
でも・・・妙に草が刈られて綺麗になっているのが気になる所ではあるが、恐らく昔の住居があったのだろう。

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しかもそこからは山間からうっすらと高見城と思われる山まで見える。(写真中央付近)
一応地図で調べてみたら、確かに高見城のある四ツ山であった。
これはわざわざ見える位置を削平したものか?あるいは偶然か?
発掘調査でもすれば分かるのかも知れないが、現時点では分からない。

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足元には近年まで使われていたと思われる井戸のような跡まで残っていた。
どう見ても下水道などで使用されるコンクリート製の物で、正確には井戸であるかも分からない。
でもこの辺りは湧水があり、生活するには申し分ない条件を備えているようだった。


ここまで書いて残念ながらブログの写真容量が満タンになってしまったようだ。
一応容量増量を申請してみるが・・・こんなブログに増やしてもらえるか謎だったりする。
なお、先ほどの平場の上にも緩やかながらも何かあったような平場があり、それを囲むように溝があった。
字新屋敷の名は中世の城館跡なのか?
これをご覧になって興味をもった方に見ていただきたい所だったりする。

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牟礼堀の内(埼玉県大里郡寄居町)

以前寄居町の南部を調査してなかったので、今回そちらの訪問をする事にした。
ついでなので嵐山町と滑川町の調査もしたいなっと思って日の出前に家を出た。
最初に訪れたのは埼玉県大里郡寄居町大字牟礼である。
ここは地図を見ると中世城郭である鉢形城と高見(四ツ山)城の中間に位置する場所である。
特に高見城からは近距離で、何かあったんじゃないかと気になっていたので、今回の訪問となった。

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牟礼字堀の内付近の様子。
確かに旧家があり昔から人の住んでいた様子を思わせる。
では早速グルッと県道沿いに回ってみる。

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いくつかの沢が合流するこの辺り・・・これを見たからには行かない訳にはいかない。
といつもの土砂災害危険警告板(名称知らないので適当)があるので沢の名前を見てみる事に。

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その名も「牟礼沢4」
通称4号なのか。
恐らく地元でも名前の無かった沢なのかも知れない。
一応牟礼沢が幾つも入り組んでいるその辺りへ。

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おおお、いいな。
これだけ見せられたら「城」といわれてもちょっと説得力あるかも。
ちょっと草が生い茂る季節なので、その先に行くのは控えた。
うーん、最近衰えたもんだ。

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沢の流れによって削られたのか?人の手によって削られたのか?
堀の内という地名は沢に囲まれている事によって名づけられた地名なのか?
この辺りの聞き込みをすれば良かったのかも知れないが、早朝なので控えた。
寝起きというのもあって判断力が鈍い。

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もう一つ館跡があったんじゃないかと思わせる地形が道路の形状に。
写真左の県道がショートカットでいるのに対し、旧道は堀の内(写真の右側)に突き当たった後、堀の内の周囲を回るようにしてこちらに通っている。
宅地や農地になっていて痕跡すら残していない堀の内、でもなんとなくこういう所で名残を見せているのは我が気のせいであろうか?

堀の内 雰囲気だけ残る 初夏の朝
なんだか寝ぼけているので変な俳句を読んで今回終了。
(一応季語も入っていたのは自分でも驚き)

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