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屈戸の南廓

先日の「まがい地調査」のタイトル名を間違っていたので修正。
×屈戸 → ○中恩田
そんな事で今回こそ本番の屈戸である。
旧大里町の北に市田小学校があり、その北東に常永寺という寺がある。
この常永寺の東部分の集落が今回目指す屈戸の字南廓である。

resize5568.jpg
それが件の南廓周辺。
前方の道が屈折しているのが妙に気になる。
最近はこういった屈折する道に気を取られがちである。

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まがい地ばかり巡っているとこんな窪みですら過剰反応をするようになる。
単なる排水路であるのは分かっているが、つい堀である可能性を求めてしまう。
なお、他の写真だとまたも民家が写っているので省略する。

resize5566.jpg
この辺りは高い建物が特にないので、空が随分と広く感じられる。
城館跡は特に無いのだが、こういう空を見ているだけで気持ちが癒される。


荒川の氾濫原にあって集落の多い所は地形がやや高い。
ここも洩れず周辺の水田に比べてやや地形が高い。
小字名である「南廓・北廓」とは城館に関連するか?あるいは別の空間に使われた名称か?
いずれにしても古くから何かあった土地である事は言えそうである。

そんな訳で次の場所へ移動する。

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中恩田の内手 その2

「西内手」に引き続き「東内手」も行って見る。
同じ旧大里町中恩田に有るため東に位置する内手という事で名づけた名前と思われる。
先の西内手より東方に約1kmの地点にある。

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こちらも水田地帯にある集落で、用水路の合間に民家が集まっている。
個人的に気に入ったのはこちらの水路。

resize5562.jpg
昔ながらの護岸されていない水路。
一部は護岸されているものの、その殆どが草が生い茂って構成されている。
自分が幼い頃にはこんな水路があったものだが・・・最近は護岸された所ばかりになった。
って事で個人的に(まがい地と関係ないが)お気に入り。

resize5564.jpg
その反動があってか、西側の水路はバリバリ護岸されまくりだったりする。
地元有志の方が花とか飾ってくれているので、無機質な水路もなんとなく彩が・・・。

なお、内手の名づけ元は民家の為写真は割愛。
とっても水路な話になってしまった・・・。

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中恩田の内手 その1


かなり寄り道しながらもやってきた旧大里町。
最初に向かうのは大字中恩田にある字西内手。
東内手ももちろんあり、そちらは後日の「その2」で調査する。

resize5555.jpg
この辺りはほぼ民家になっており、少々撮影をはばかられる所も。
そんな事で裏側から失礼させていただく事に。
一応屋敷林が存在しており、北側の入口は見た感じ食い違いに見える。
うーん、こういった民家を館跡に見えてしまう辺り、なんでも遺構に見えてしまう「生活城館病」にかかっておるな。

旧大里町は特に伝承を残す遺構が無いのだが、中世期には久下氏などの領地になっていたと推定できる。
現在こそ荒川を隔てて久下氏の館(伝承)はあるが、今の荒川になったのも徳川幕府による河川改修によるものなので、陸続きであった可能性がある。(川の一部が隔てていた可能性はあったりもするが)
また熊谷市楊井の名を称した久下氏の一族楊井氏もこの旧大里町を挟んでいるので、飛び地でない限りはこの地も久下氏による支配が及んでいた可能性はある。
これらも推測なので確かな事は言えないが、こうして中世期の情勢を読み解くのも城館探訪の楽しみであると思える。

・・・長々と考え事してしまったが、今度は「東内手」へ。

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本畠の中居

自分の中では恒例になってしまった城館「まがい地」めぐり。
今回は畠山重忠公の生まれ故郷に程近い場所にある字中居・馬場に突撃してみた。

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最初に字馬場から。
写真の竹薮は南側から眺めておりますががいい感じに広がっている。

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竹薮を道路が貫通しており、北側に回ると若干低くなっている。
ただ地形的に竹薮の方が若干高まりになっている程度でとくに目ぼしい遺構は(もちろん)ない。

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今度は本題である字中居へ。
おお、なんとなく怪しげな竹薮が!
さっそく近づいて見る事に。

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この藪の一画だけ現在の道割りと異なった形状をしており、興味が引かれてしまう。
竹藪の外は根除けの堀だと思われるがしっかり区画されている。
念のため戦後米軍が撮影した航空写真をみてみたが、この部分は茂みになっていた。

ただ、この周辺の地形を見てみたが民家の敷地を合わせても50mちょっとぐらいで、鎌倉期の方形館にはちょっと及ばない。
しかし、この北西には畠山重忠の居館と南に家臣本田ニ郎親恒の館がある事を踏まえると、重忠の郎党が居住していたのだろうか?
でも気になるのは「中居」という名称。
大抵はその土地の領主の居館に使われる名称であるので、畠山氏の居館に使われていれば納得いくのだが・・・
実際に当時の畠山氏の居館が明確に残っていない以上、想像でしか考えられない所はある。

そんな事で次なる場所へ移動するのであった。

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この所まがい地ばかり

城でありそうで城で無い所ばかり行っているせいか、生々しい土塁や堀切が恋しくなってくる。
今日行った所も城がありそうだったが、実際にあったのは直径5mほどの穴。
穴!?堀ではなく穴??
っとその穴をよく見たら岩場を削っているようにも見えたので、おそらく採石による穴だろう。
比高100m程の山頂でよくこれだけの穴を大量に作ったものだと感心してしまう。

そろそろ遠くの有名な城郭を見に行く必要がありそうだな。

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