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腰越の館地区

埼玉県小川町という町は南西の山地に伸びている地域がある。
腰越地区がそれである。
中世城館では「腰越城」が有名であるが、腰越地区からみればメイン通りに面した部分である。
今回は以前から気になっていた「館」と呼ばれる地区へ足を運んだ。

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比企郡の丘陵地帯も西になればゴッツイ岩山も出てくる。
腰越地区の「越中」より車で奥に向かう。

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いきなり鳥居が現れビックリ。
何にも書かれていないので気になり地元の方にこの鳥居について訪ねてみた。
聞けばこの鳥居はこの奥にある笠山に向かって配置されていたようである。
ただ、最近は杉の木が伸びて笠山が見えなくなった上、管理する人がいなくなったようである。
でも鳥居だから撤去するわけにも行かず、今の状態で放置されているようである。
確かに地図で確認すると障害物が無ければ笠山が直視できる場所だったりする。

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ちょっと寄り道して「館」と呼ばれる集落に着いた。
両側から山が迫ってはいるが、比較的広い場所で一部が耕地になっている。

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側を流れる川もまんま「館川」
地理には疎くてもこういう標識があるので、川の名前を知るのには苦労が無いのが救いだったりする。

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個人宅が多いので写真掲載は控えるが、気になるのはこの道端に突如現れる巨岩。
よくこういう巨岩には注連縄を着けて社を配置する事が多いが、今回は確認するの忘れた。
城館関連とは直結しないが、この岩の下ってどの位の大きさなんだろうか?
これが全体かも知れないし、氷山の一角のように一部だったりするのか。

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ふと空を見上げてみれば五月晴れの空に鉄塔。
この後少々聞き込みをしてみたが、直接城館跡に関連する情報は入手できなかった。
かくして次なる目的地へ向かうのであった。
 

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小川町の謎の土盛り

本日の調査地は埼玉県比企郡小川町+α。
山城もあるが、今回は手軽に回れる「まがい地」めぐりを交えて行く事に。
そんな事で小川町の通り慣れない道を通った時に、土塁のような土盛りを発見してしまったので車を停めた。

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ここは小川町青山の某所。
単なる土盛りだと思うのだが、なんとなく土塁のような趣が・・・。

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それはグルッと西側を囲んで伸びており、不思議な事に内側の方が外より低い。
町割りから見ても一辺50mちょっとぐらいのものだが、旧家も多い事で昔からの居住設備だった可能性はある。
こういうのが意外と城館遺構だったりする事もあるので、しっかり記録しておくことに。

・・・と思ったら愛用の道路地図を家に忘れていた。
頼りになるのは周辺地図をプリントしたものだけ。
もっとも我が車はカーナビを搭載したので何とかなるだろう。

かくしてちょっとした寄り道をし、本来の目的地へ向かうのであった。

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高本の高城町

今回のまがい地めぐりで最もハズレだと思ったのはこの字高城町。
「お?城と名づけてある!」っと思ってチェックしてしまい、訪問してみたのだが・・・

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うーん、集落すら無い所からして、かなりのハズレ感。
資料を今一度読んでみたら、どうやら「高城神社」があった事にちなむ名称であったようだ。
まがい地めぐりはハズレが多いけど、色々と見れて楽しいのでそれはそれで満足であったりする。

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沼黒の内屋敷


旧大里町の沼黒地区には正福寺という寺があり、その周辺の小字がとても魅力的なものがそろっている。
正福寺付近を字「内屋敷」、東側を「東屋敷」、西を「西屋敷」・・・まんまである。
そして南側には字「竹ノ内」という怪しさ満点の小字がズラリと並ぶ。
ふむ、これは調査しないわけにはいかない。

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その正福寺に来てみたが・・・どうやら無住の寺のように見える。
まずはそのお墓で最も立派な墓を探してみる。
意外と墓地がその地の土豪を弔った板碑があったりするので、ヒントを得る意味で探しに行く。

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ふむ、これはいい宝篋印塔だ。
手掛かりになりそうなのはこの宝篋印塔だけで、板碑などは見られなかった。
もっとも板碑の分布図などがあればよりよいヒントになるのであろうが・・・

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さて、周辺を歩いてみるが、当然堀や土塁などは見当たらず。
水路ならあるが堀に直結するのは安易過ぎる。
まがい地めぐりなんてこんな感じという典型的なケースであろう。
ちなみにこの集落は南西300mの所に和田吉野川が流れており、この集落はその自然堤防上に位置している。

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逆光で写真写りが悪いが西屋敷の方向。
茂みは丁度屋敷林のようで、周辺に比べて若干高い。

段々グルグルと周っている為か、住民の方々の冷ややかな視線をちょっと感じるようになってきた。
近くでワンちゃんも吼えている事だし・・・ここの調査は終了!

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屈戸の中廓

先の屈戸と同じ地名であるが、こちらはまったく場所が離れて荒川の堤防内。
ここは旧大里町屈戸字中廓と宮廓である。

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荒川の堤防上から屈戸字中廓(左側)と同宮廓(左側)を望む。
この辺りは荒川の川辺に集落があったのだが、昭和初期の堤防築堤に及んで立ち退きされたのだという。
川向の熊谷市新川もかっては村だったというが、現在は堤防の内側になるので住む人はいないという。
本題に戻って、この茂みは・・・実に興味が沸いてくる。
早速堤防を降りて行ってみる事に。

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堤防の内側にはなにやら道路が。
これは何だろう?っと思ったら看板があった。

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ふむ、どうやらテストコースらしい。
車か何かを走らすようで、テスト時には孤立できるように鎖で道を封鎖できるようだ。
幸い今は行っていないようなので、速やかに道路を渡る。
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写真じゃ分からないかも知れないが、茂みとその周辺の地形が高い。
明治時代の日本陸軍によって作図された迅速側図を見ると、僅かだがこの辺りには集落があったようである。
目の前に見える墓地もその名残で当時からある墓地なのだろう。
でもこの辺の墓石は「○○家奥津城」と書かれており、神道系のお墓が殆どであった。

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これは土塁?
いやいや、単なる土盛りでしょう。
どうもまがい地めぐりをすると、過剰反応になりがちである。

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茂みの方に近づくとこんな看板が。
確かに竹林になっていて、時期が悪いと竹の子泥棒と勘違いされてしまう。

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ふむ、これは土塁?でも内側(右)が堀って可能性も。
全ては竹薮となっているため真相不明。
結構気になる場所のひとつである。

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そのまま竹薮をつっきって河原へ
茂みのある辺りが川より5m程の高さがあるのがここに来て分かった。
先の看板にあった事もあるので、間違えられない内に退散する事に。

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変わって川上の方に歩いてきたら、こういう場所へ。
これだけ見てると城館遺構を見ている気分になってしまうが、この直下は荒川である。

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写真じゃ分かり辛いが、ここだけ少し高い所にあり、何も無ければおおよそ10m前後のスペースがある。
ここもなんとなく意味ありげな感じに。

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かくして調査終了。
それにしても河原岸の自然堤防上にあり、これだけの空間を擁しているのが気になる所。
中世期には荒川は現在の元荒川が本流であっただけで、こちらも分流が流れていた可能性は充分ある。
とすればここを城館跡と仮定すれば荒川の水運を見張る役割を果たしていた事は考えられる。
色々と妄想が沸き立つが、今は麦畑が風を受けながら揺れているだけである。

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