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大井氏館(埼玉県ふじみ野市)

現在では「ふじみ野市」になった元入間郡大井町に、大井氏の居館があったという。
前々から行きたいとは思っていたが、なんとなく行く機会を逃していた。
ついでに近くの「五輪山」とやらの調査も並行して行う事にした。

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大井氏館の近くには「東原親水公園」なる施設があるお陰で、車の駐車スペースには困らなかった。
大井町はそもそも武蔵野台地の真っ只中にある為、昔から水を得るのが難しかった地域。
川の水も本当に少量で、井戸は深く掘らないと使えない。
故に台地という地形は中世期にのみならず人が生活するには不便な地形であった。

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先ほどの駐車場より50m程で貴重な井戸の復元がある。
ちゃんと門があるが、鍵はかかってないので入れる。

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なんとも力の入った石碑(?)だ。
その復元した「大井戸」とはどんな井戸だろう?

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これがその復元大井戸。
近くの解説板に色々と書かれており、大井の地名自体が「お井ど」から転訛したもののようだ。
「御」と尊称をつけるぐらい、この地では井戸がありがたい存在であった事を思わせる。

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更にちょっと歩いて川越街道沿いにある「徳性寺」には、板碑が安置されている。
この山門の入ってすぐ左側に板碑はある。

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それほど大きなサイズではないにしても、板碑があっただけありがたいと見るべきか。
なお、この板碑の側には更に小サイズの板碑が大量に置かれている。



・・・あ、五輪山の調査を忘れそうになった。
ついでに謎の五輪山へ赴く。

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『埼玉県の中世城館跡』に印が付けられた場所は、宅地になってしまっていた。
こちらは手元に資料がまったく無い為、「五輪塔がたくさんある山?」程度の認識しかない。
一応新しく住宅が造成された一画に「従是川越迄二里十八丁」と書かれた碑がある程度であった。
余談ではあるが川越街道は武士など身分の高い者が主に使う街道で、町人などはいちいち頭を下げるのが面倒だったのでこの川越街道を避け、より東にある道を使って行き来していたようである。

中世期の遺構は特に見当たらなかったが、井戸や板碑があるだけ良かった。
かくして次の場所に移動するのであった。

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八月に遠征計画

八月に有休を頼んだら見事にいただけたので、思い切り遠くの城館跡を見てこようと思っている。
さて?遠くって言っても多くの城館跡があるのだが・・・
先に埼玉県にゆかりの多い所から訪問していこうと思っていたり。

予定としては夜行を使って移動と宿泊を兼ねて、更にレンタカーを使って機動的に動く予定。
丸二日フルに動けるようにして、再び夜行で帰るものなり。
ただ、夜行の時間が遅いので、それまで何をして待機しているかが問題だったりも。
調べてみたら図書館も夕方6時で閉まるみたいなので・・・それまでどこかで仮眠か?

もう決行日は一ヶ月以内になっているので、予約関連は早めに行っておく必要がありそうだ。
予約もそうだし、事前の予習も必要であろう。
って事でしばしネット検索で情報を収集するのであった。

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勝瀬氏館(埼玉県富士見市)

富士見市の北部勝瀬には中世期に勝瀬孫六の居館があったという。
実はここ、一度は訪れた事があったものの、遺構がどうだったか忘れてしまったという。
なので再認識の意味で立ち寄った。

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勝瀬の交差点が一番の目印かも知れない。
勝瀬氏の居館の小字は「鍛冶海戸」でやはり「垣戸(かいと)」が絡んだ小字になっている。
ちなみに道路を挟んで西側の小字は「屋敷廻」である。

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民家がびっしりだった記憶があったが、訪ねて見ると中央付近は畑になっていた。
家がビッシリ建ち並んでいたイメージは果たして何処の館跡だったのやら?

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館跡にはご丁寧な手書きの案内板が・・・
っても勝瀬氏館に関してではなく、榛名神社への地図であった。
その榛名神社に行く人が間違ってこの辺りをうろつくのか?あるいは道を聞いてくるのか?
地図を描いて掲示しておく辺り、需要があったのであろう。

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なんだかんだ歩いて、結局北側の道路脇に土塁らしき高まりを発見。
道路脇なんで自然に土塁の高さを見つめる事ができるのが素晴らしい。
おそらく堀は現在の歩道となって埋没したものと思われる。

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土塁のある辺りを別角度から望む。
堀も残っていてくれれば・・・なんて思うが、土塁が残されているのだから有り難いと思う。
地権者次第だけど、このまま当時の土塁を残していって欲しいものである。


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上南畑字本村内手(埼玉県富士見市)

富士見市の小字もしっかり調査したのでそちらも萎えない程度に並行して行う事にする。
大字上南畑には小字として「本村内手」と「上内手」の二箇所がある。
内手・・・この地名を聞いて行かない訳にはいかない。
かくして遺構すらなさそうな新河岸川沿いに到着した。

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上南畑地区のこの公民館のある辺りが本村内手だという。
この周辺は果樹園と田んぼと民家が入り混じっていて、ちょっと見ただけだと遺構は無さそうだ。
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今度は上内手と言われる付近を望んでみた。
うーん、ここも果樹園やらになっていて遺構は到底なさそうである。
近くで作業していた方に伺った所、この辺りの果樹園は梨がなるそうだ。

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ちょっと見晴らしの良さそうな堤防の上に立ってみた。
中央を流れるは新河岸川である。
堤防の上からちょっと見渡してみたものの、やはり中世期の城館跡に繋がる物は見つからない。

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当たり前のようだが、民家のある辺りは河川より高い位置にある。
かっては堤防が無かった訳だが、川が作り出した「自然堤防」によってある程度水害が防げたのがなんとなく分かる。
流石はまがい地だけあってそう簡単に城館跡の名残を見つけさせてくれない。

って事でここを後にしたのだった。


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大久保城(埼玉県富士見市)

富士見市の北端に大久保城という中世期の城がある。
その地は荒川と新河岸川が接近し乱流した地域で、大久保城の地形は二つの川に挟まれながらも小高くなっている。
昔から交通の盛んな地であったようで、現在もしきりに車が往来している。

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この辺りが大久保城があったとされる地域で、小字も「金子街道」という。
ここより南に居住していた難波田氏は元々金子氏の出である事から「金子氏の垣戸」という意味が含まれているのだろうか。
びん沼川は河川改修を行われる前の荒川であり、その乱流する流れに当時の暴れ川の面影を感じることができる。
写真手前の河は今でこそびん沼川となっているが、実際は新河岸川の放水路として新たに作られたものであろう。

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東大久保の交差点を越えて長往寺を訪ねてみる。
このあたりは字上手で、こちらも中世城館跡に馴染みのある地名である。
が、思ったよりお寺の本堂が新しいのでちょっとガッカリ。
建替えた可能性もあるが、寺の縁起などを調べてないのでなんとも言えず。

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寺の脇の県道沿いには暗渠化されて歩道になっている水路がある。
なんとも意味ありげにも思えるが、城館遺構というより灌漑水路であった可能性が高い。

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東大久保地区の西に接して低地があり、これがかっての新河岸川であったという。
明治時代まで江戸と河越を水運で結んでいた河川の姿は、草(芦?)が生い茂る低地となっている。
ここを幾たびも荷を積んだ舟が行き来していた事など難しい。

やはり中世城館跡を思わせる遺構は喪失していたようだ。
今回再訪問して思ったのは新たに作られたびん沼川の放水路に大久保城があったのではないかという仮説。
最近自分が愛用している明治時代の地形図「迅速測図」にはこのあたりはしっかり繋がっていて、民家も数軒建っていたように描かれていた。
丁度河川と街道が収束する地だけに交通の監視をするのにもってこいの地形で、今掘られているびん沼川に遺構があった可能性も考えられる。
とはいえ既に地形は変わってしまっている現在、想像でしか事を言えないのがもどかしい所である。

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