木部西屋敷 小川町の木部地区はかっての竹沢村の一地区でもある。 そんな木部地区の奥に西屋敷という屋敷があると知ったのは・・・ちょっと前の事。 折角小川町の城館跡を回っているので、この西屋敷へと訪れる事にした。 車を路肩に停める事も出来たが、ちょっと不安なので官ノ倉山の登山道入口付近まで来て、車を停める。 そこは農業灌漑用のため池になっていて、腰を下ろして今まで回ってきた疲れをちょっと癒す・・・。 湖と森・・・しかも周囲は交通機関から少々離れているので実に静か。 一応マイナスイオンは受けていると思う。 水面を見ると多くのアメンボが水面を動き回っている。 よく見ていると同じアメンボでも色々種類が居るのに気付いた。 こんな感じで城館探訪の途中にも関わらず、まさかのアメンボ観察をしてしまった。 では休憩もできたし、本題の西屋敷へ。 先ほどのため池付近より西屋敷周辺を望む。 この辺りは車では行き止まりになるので、通る車も非常に少なく本当に静かである。 山間の集落の合間を縫って、川が流れている。 その名は・・・ ズバリ、「西屋敷沢」である。 それにしても本当にこの看板、沢の名前を知るのに役立つ。 集落の一部に東に向かって段を築いている場所がある。 恐らくここなのだろう。 詳しい事は聞き込みをしなかったので不明のままである。 なお、西屋敷より下流(北)には三光神社があり、こちらは児玉党竹沢氏の子孫によって創建されたと解説板には記されている。 これ以上に詳しい調査を「そこに城があるから」の方でされているのでそちらを参考に。 して次なる場所へ移動するのであった。 [0回]PR
長尾四郎高勝館? こちらも「そこに城があるから」の左馬助様のブログを読んで猛烈に行って見たかった所である。 詳しい事は上記のブログを参照の事で。 確かに「いい形してますね~」という丘がある。 ちょっと民家のまん前を通過するので入り辛かったが、裏の竹山にお邪魔させていただいた。 前の民家も石積みされていて、これも遺構?っと思える節も。 ちょっと登った所で削平地登場。 少々狭いが掘っ立て小屋一つ建てるなら全然申し分ない広さはある。 もちろん更に上に上って行く事に。 こちらもまったくの自然地形ではなく、ある程度人の手が加わった痕跡があり。 それにしても左馬助様もよくここを発見なさったものだ。 一応作りかけのような堀切もあり、本当はここが土を盛られてさらに深くなっていたのかも知れない。 明確な遺構はこの辺りまでで、北に尾根は伸びているが全て自然地形であった。 あとこの辺りの遺構が余りにも良いので、思わず西の竪堀状の道を撮影し忘れてしまった。 中城も良かったけど、ここもいい意味でテンションを上げさせてもらった。 そんな事で次の場所へと移動するのであった。 [0回]
大梅寺 先の八幡神社よりプラプラと歩いて着いたのは大梅寺。 このお寺、緩やかな尾根上に所在していて、南は谷地になっている。 でもそれ以上でもそれ以下でもないという感じ。 一応小河次郎の屋敷候補にはなっているのだが・・・。 寺の東側は住宅地が造成されている。 もしここを堀切などがあれば、それを切通しとしているのではと思ったが、その痕跡は見当たらず。 境内に生えているノッポな木なら昔の事をしっているのかも知れないが・・・ 寺の北側はまた谷地になっており、急落している。 丘だから水は下からくんできたのかと思いきや、境内には井戸らしいものもあった。 地形は確かに良い場所ではあるが、遺構らしきものは見当たらなかった。 というオチで大梅寺の調査は終了。 [0回]
守邦親王仮寓地 当サイトとリンクされている「城跡ほっつき歩き」と「そこに城があるから」で同地が紹介されているので、詳しい事は各サイトへ委ねてっと。 中世城館まがい地候補として名高いこの地は、前々から訪れて見たかった所であった。 住宅地の奥にある茂みが仮寓地であったとされる八幡神社である。 こうやってみると本当に城館っぽい雰囲気がある。 八幡神社境内に到着。 この辺りは小川町の市街地に程近いのだが、近くでウグイスが鳴いていたりと実に風情がある。 解説板にも守邦親王が鎌倉幕府滅亡後、この地に仮寓した際に八幡神社を創建した旨が書かれている。 あくまで言い伝えなので真実か分からないが、もしそうだとしたらワクワクする話だ。 八幡神社の南側は堀底道とも思える道となっている。 道路の南側はたしかに土塁になっているのだが・・・更に南には県指定史跡である穴八幡古墳があるので、そちらの遺構である可能性も。 神社の西側の杉林には謎の窪みが・・・かなり浅いものの堀に見えてしまう。 もう一丁違う角度から。 道路に並行して溝が南北に伸びているのだが・・・写真じゃわかり辛いのが残念。 溝の北は運動場造成によって喪失してしまっていた。 こちらはかって馬場であったという話も出ており、今昔で運動する場所になっているのは何の因果か。 実は八幡神社の北東にも怪しげな土塁が存在する。 こうやって神社の周辺を周ってみると、方形館としても不思議でない趣がある。 その真相についてはいつか発掘調査でもする機会があれば判明するのだろう。 ちょっとした散歩もできたし、城館跡であるかは別にして楽しく歩かせてもらった。 [0回]
腰越の内出 比企郡小川町にある腰越城に程近い所に「内出」なる地名がある。 この「内出」の地名は館から「討って出る」場所であった事から名づけられた由来があり、これが「打出」→「内出」と読みは同じで漢字だけ変わった事が多い。「堀の内」「陣屋」「屋敷」らと並んで、当方がもっとも過剰反応を示す地名の一つである。 他にも農地検地において杭を打って測量した事から名づけられたという説もあったりするが、この内出に関してはどこもみな中世城館を配置するのに相応しい地形であったりする。 前置きが長くなったが、早速内出地区を訪ねてみよう。 腰越城から南西に槻川を挟んで600mほどの所が内出地区。 この集落を流れる沢もまんま「内出沢」 それにしても本当にこの標識には助けられる。 内出集落南にある氷川神社本殿。 背後の露出した岩がなんとも風情を誘う。 一応この周辺を調査してみたが、それらしい地形は無かった。 となればやはり「内手沢」が流れる場所を見に行かねば。 内出沢周辺は古くからの家が多く、東へ緩やかに傾斜している地形を土を盛って平にしているように見える。 先ほどから名の出ている内出沢が堀の役割を担いつつ、水の手になっていただろう。 地名から推察すれば在地土豪の屋敷で、戦国期には近くの腰越城の城兵が平時住まう居住地だったのかも知れない。 なお、直接城館跡に結びつける遺構等は見当たらなかった。 かくして次なる目的地へ向かうのであった。 [0回]